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観光ポイント 知事公館
【北の国からのエッセイ】 2008年10月21日

開放されている公館
知事公館というと、一般市民にとって縁がなく、庶民にとってはなんとなく敷居の高いところである。自治体の財政難を反映して、あんな贅沢なもの必要なのか、売り飛ばしてしまえという声も全国各地から聞こえてくるご時勢である。
確かに広い敷地、見事な庭園と調度品を備えた知事公館なのに、当の主は公館に住まないで自宅から登庁する知事も結構いるという。

北海道の首府、札幌にも立派な知事公館が都心にある。ただ、他の都府県と違っているのは、知事公館が一般公開されていることである。所轄の道秘書課に問い合わせると、全国的にはわからないが、公開されている公館は余りないのではないかという。

公館を作ったときから公開していたわけではなく、四半世紀前に知事になった横路孝弘(現衆議院副議長)のときから公開されたという。おかげで誰でも自由に公館内の庭を散策し、有形文化財になっている公館を見学できる。最近では市民だけでなく、本州からの観光客も訪れるという。(写真上:知事公館 08.4.28 手前の丸い彫刻は安田侃作「意心帰」)

他日五州第一の都
明治新政府ができて北海道に開拓の鍬がはいるまでは、札幌は原生林だった。蝦夷から北海道に名称が変わった明治2年の記録に残る人口は13人だった。それからわずか140年の間に189万人に達し、全国でも5番目の大都市に成長した。

明治2年、明治天皇から国造り・開拓・お酒の神の三神を直々に預かって、札幌入りした初代判官・島義勇は(しまよしたけ・判官は今の副知事相当職か)円山地区の山に上って眼下を睥睨した。そしてこの地に 京都のような碁盤の目の都市を作って、いずれ五州第一の都を作るんだという漢詩を詠んでいる。五州とは本州などの日本の州ではない。オリンピックなみの世界の5大陸をさす。

人口希薄な明治2年の時点で、この気宇壮大な構想を抱いた肥前藩士の島義勇は、5年後の佐賀の乱の首謀者として江藤新平とともに、大久保利通によって日本で最後の「斬首晒し首」の極刑を受ける。内乱罪に相当する大罪を犯したとはいえ、近代的な建物の札幌市役所1階のフロアには、札幌の開祖として、等身大の島義勇が山から石狩平野を睥睨している立像が置かれている。(写真左:07.10.15)そしてその台座に島が作った漢詩「他日五州第一都」が刻まれている。

刀を持って開墾
こうして開拓が始まった札幌ではあるが、都心の知事公館も明治初期はご他聞にもれず荒れた原野だった。この地に、戊辰戦争で敗れた山形・鶴岡藩の侍156人が明治8年入植した。

諸士糞勉、経書を懐にし、帯刀を樹枝にかけて、鍬鋤を把り、桑苗四万株を植ゆ

鶴岡藩の侍は気力を奮い起こして開拓に尽くした。いつも懐に勉強の本を持ち、侍にとって命の次に大切な刀を木の枝にかけ、すきやくわを振るって桑の苗を4万株植えた。

これ即ち桑園なり

知事公館の一角に大きな桑園碑が立っており、その裏側に上記文言の陰文がびっしり刻み込まれている。(写真右:08.9.11)

札幌市内の当時の開拓の模様が、彷彿と浮かび上がる。桑園は今も地名として残り、JR札幌駅の隣の駅は桑園駅である。

広い公館の沢伝いには大木が繁茂しており、札幌都心ではほとんど見れない明治以前の原生林が、わずかに残っ
ている。その公館内で、毎年夏、山形県人会の人たちがささやかな桑園まつりを開き、先人を偲んでいる。

残響
この知事公館の入り口付近の庭に一人の胸像がある。村橋久成像である。 (写真左:07.9.19)男前の像だ。といってもほとんどの人はこの人誰?と思うことだろう。彼を有名にしたのはサッポロビールの創始者であることだろう。

江戸幕府が続いていたなら薩摩藩の家老になったであろう高い家柄に生まれた村橋は、将来を嘱望されて江戸末期、森有礼らとイギリスに留学する。帰国後、箱館戦争で明治新政府の総大将、黒田清隆の下で、軍監として参謀をつとめ、五稜郭に立てこもる榎本武楊・土方歳三を破り、これによって明治新政府は日本全土を支配する。

村橋は新政府が作った国の役所・北海道開拓使の役人になり、薩摩の下級藩士で必ずしもよき関係とはいえなかった実力者、黒田清隆のもとで働く。屯田兵村、七重農場、製糸所、孵化場、牧羊場など殖産興業に力をいれ、北海道産業の礎を築く。

とりわけ東京に決まりかけていた初の国産ビール工場を、ひっくり返して札幌に持ってきたのは村橋の功績であった。これらはいずれも明治10年前後の日本の近代化につながる、北海道創世期の話である。

写真は明治の面影残すビール工場で、現在はサッポロビール博物館になっている。(08.5.10) 樽に書かれた文字は縦に読む。「麦とホップを・・・」ところが数々の官営工場が民間に一斉に払い下げられる時期になって、村橋は突然周りが引き止めるのを聞かず勧業課長の要職を辞めて旅に出て姿を消す。

その11年後の明治25年10月、神戸の新聞に野垂れ死にした雲水姿の男の死亡広告が掲載された。

村橋久成だった。

昭和57年、埋もれていた村橋の光と影の人生を掘り起こした本「残響」が世に出た。残響を読んで心打たれた日本芸術院会員で、村橋と同郷の彫刻家・中村晋也が村橋の像を作った。小泉純一郎総理が国会の所信表明演説で、長岡藩の「米百表」を持ち出したことは記憶に新しい。それを意識したわけではなかろうが、北海道の女性知事として登場した高橋はるみ知事が、初の施政方針演説で、殖産興業に努めた村橋久成を取り上げた。「村橋って誰?」何も知らない道議会議員で本会議場はざわついたという。

村橋が一番輝いていたのはやはり札幌だ。中村晋也のアトリエに眠っていた村橋の胸像を、札幌に移す運動が起こり、村橋は知事公館の特等席に収まった。5年前、小説残響の作者・彫刻製作者・鹿児島市長・それに村橋久成の子孫らが集まって雨の中、盛大な式典が開かれたという。

或る女
官営の桑畑であった桑園はその後、民間に払い下げられた後、三井財閥に売却される。三井は迎賓館として使用するが戦後米軍に接収され、その後、市有地と道有地を交換して知事公館になる。

余談だが払い下げを受けたのは札幌農学校2代目校長 森源三である。クラーク博士はすでに帰国していない。

校長を退職後養蚕事業で成功した森源三は、後に第一回の衆議院議員になる。(写真左:公館内に掲げられている森夫妻 08.4.25)

この時代、上流階級の家柄に生まれたS・N子が親族の反対を押し切って作家の国木田独歩と結婚する。結婚は5ヶ月で破綻し、N子は親族会議でシアトルの日本人実業家に嫁することを決められる。「家」中心の明治時代のことである。親族会議の決定に逆らえないN子は、横浜から日本郵船の船に乗ってシアトルに向かうが、こともあろうに海路の途中で、郵船の事務長と恋仲に陥る。N子はシアトルについても下船せず、事務長と一緒に日本に戻ってくる。待ちぼうけを食わされた悲運の実業家が、実は森源三の長男である。

船上での熱々ぶりを一部始終目撃した著名な同乗女性が、淑女であるべき日本女性の風上にも置けないと告発する。男を弄んだのか、それとも女性として自らに正直に生き抜いたのか、N子をモデルとして書かれた作品が有島武郎の「或る女」である。或る女はベストセラーとなり、有島は文壇の第一人者となった。自身も高級官僚を父に持ち、皇太子のご学友でもあった有島武郎と森源三の長男とは、札幌農学校時代の友人であった。

紅葉宣言
北海道の知事公館は単なる知事の公宅ではなく、数々の歴史とロマンが刻み込まれている。その知事公館は隠れたウメの名所であり、秋は紅葉の名所でもある。(写真右:公館窓から撮影したウメ 08.4.25)余り知られてないため混雑することはない。毎年 車椅子の人たちがよく弁当を広げてウメを愛でている。春になるとサクラ前線の北上が待ち遠しいが、札幌では北海道神宮境内のソメイヨシノの「標準木」を気象台職員が観察して、数輪咲いたら開花宣言をだす。

同じように紅葉宣言がある。ヤマモミジの標準木が80%紅葉したら紅葉宣言し、80%落葉したら落葉の日だという。札幌の標準木となる2本のヤマモミジが、知事公館の入り口にある。(写真下:10.16)看板もないので関係者以外誰も知らない。16日現在相当色づいてはいるが、気象台に問い合せると紅葉宣言にはちょっと早いという。今週早々にはでるだろう。ちなみに去年は22日に紅葉宣言が出ている。

こちらもよくテレビが入って、ライトアップされた鮮やかな公館の紅葉が紹介されている。この日訪れると、静かな空間に近くの人が犬を放して散策していた。色づきの早いヤマグワの黄葉とエゾヤマザクラの紅葉が、ぱらぱらと地面に落ちてきた。  札幌の立派な観光ポイントである。
(完)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。