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里山を守った明治の先人
【北の国からのエッセイ】 2008年11月27日

札幌は先週初めて10cmほどの積雪があった。

車の排ガスやビルの暖房などで、都心の道路から雪はほとんど消えてしまった。これに対し、人間生活と直接触れることのない森の中は、一度降った雪は気温が上昇しない限り、そう簡単には消えない。白一色になっているであろう近郊の森に一人で出かけてきた。

自然観察のホームグラウンド
行き先は札幌市と隣町の江別市をまたぐ野幌(のっぽろ)森林公園である。自宅から地下鉄とバスを乗り継いで1時間、私の自然観察のホームグラウンドで、春の芽吹き、夏の緑、秋の紅葉、そして冬の雪景色・・・

年20回以上は足を運んでいるだろうか。これほど足繁く通っても、森全体の20%くらいも歩いていない。何しろ面積は東京都港区とほぼ匹敵し、平地の公園としては日本一広い公園だ。いくら近郊といっても自然が相手なので用心も必要、クマより怖いスズメバチもいてそう簡単には奥地に入れない。おまけに冬の森の一人歩きとなると、初めての道はまず敬遠だ。

森の住人
通いなれた森に入ると広葉樹はすっかり落葉し、変わって雪の花が枝一杯に咲いている。この時間 鳥の鳴き声も聞こえず、静寂そのものの森だ。行き交う人はだれもいない。ときどき枝からバサっと雪が落ちて、帽子に当たる。

しばらく歩くと眼下が広がり、大きな池・瑞穂(みずほ)の池に出た。この池の水によって豊作となるよう、期待をこめて名づけられた人工の池である。(写真左)池の広場は白一色の世界だ。雪原の上に動物の足跡があった。

キタキツネだ。キタキツネは肩幅が狭いため、足跡はほぼ一直線になるのが特徴だ。(写真右)この森にはキタキツネの他にウサギ、エゾリス、テンなどの小動物が生息している。朝早いため、この雪原にはキタキツネと私の足跡しかない。

気温は0度、冷え込んではいるが気分は爽快だ。森に入るときはいつもは同好の士と賑やかに入るが、きょうは誰も誘わず特別に一人で訪れた。というのも今日までこの森がよく残ったものだということを、恐怖心を抱きながらも一人で実感したかったからである。

北海道の開拓者
北海道は明治以前は道南の松前周辺を除いて和人はほとんど住んでなく、明治以降新天地を求めて全国から開拓民が入った。開拓民が先ずやったことは耕作地を作ることだった。そのために原生林を切り開く、つまり森をつぶすこと、それが仕事だった。

野幌にも明治19年、新潟から開拓団が入った。戊辰戦争で敗れた長岡藩士と篤農家らが「北越殖民社」を結成して移住者を募集して入植した。当時の野幌は

林樹 天を掩(おお)い、昼猶(なお)暗く、蒹葭(けんか)(荻と葦)野に連なるを茫然(ぼうぜん)と望む

野幌開拓の記念碑にこう記述されている。開拓で一番手こずったのは、木を切り倒した後の根を取り除くことだったという。

4年前 最大瞬間風速50mを越す台風18号が札幌を襲った。北大のポプラ並木が倒れたときの台風だ。このとき北大植物園は、明治19年開園して以来の最悪の被害を受けた。植物園を提言したクラーク博士も、大木がバタバタ倒れたと聞いたら、さぞびっくりしたことだろう。

4年立った今年の春、植物園はどう変わったかを検証するセミナーがあった。その時の説明役の准教授曰く、「倒木はクレーンで運んだが、問題は根っ子の処理だった。これを取り除こうとしてもビクとも動かない。人力と機械力で時間をかけて1本1本ようやく取り除くことができた。重機などがなかった100年以上前に入植した開拓民の苦労が、よくわかった。」准教授がこのように述懐していたことを思い出す。

上の写真は同じ台風18号でおびただしい風倒木を出した野幌の森である。(04年9月)鬱蒼としていた森にぽっかり穴が開いていた。当の植物園は被害を受けた後、そのまま7ヶ月間休園してしまった。

明治版市民運動
困難を乗り越え、原始林を切り開いて開拓が進んだ野幌で、なぜ森が残ったのだろうか。そこには先人開拓者の必死の存続運動があった。

野幌の森は明治時代に御料林となった時期があった。つまり天皇家の財産だ。森の中には、昭和初期に天皇が訪れて馬を休ませた場所に、駐蹕(ちゅうひつ)の碑が建てられ、今でも残っている。(写真右:碑の入り口の案内板)

その時はすでに御料林は解除されていたが、天皇はかって御料林だった森を見たかったのだろうか。御料林は簡単には手を出せず、森を保護した反面、開拓を阻むという側面も持っていた。しかし、開拓が進むにつれて御料林も解除され、国有地を周辺の村落に分割して払い下げられることになった。

北越殖民社の社長、関矢孫左衛門は森が分割・細分化されると山が荒れ、田畑を潤すために人工的に作ったあちこちの池や沼が干上がって、開拓民の生命線が失われることを恐れた。この森は水源涵養林だったのだ。今までの開拓が水の泡になると北海道庁に掛け合うが、当局は「水源の確保は他にも方法がある」とか、「官の命令は法律と等しく、遵守せねばならぬ」と繰り返すのみ。

ついに孫左衛門は直接行動に出た。出張で東京に向かう北海道庁長官に直訴するために、札幌の停車場で待ち構えた。しかし、巡査だけでなく憲兵まで動員されて、とても直訴どころではなく、列車は発車した。それでは宿泊先の室蘭で捉まえよう、直訴団は先回りして待っていたが、長官一行は室蘭では泊まらず、函館に向かってしまった。直訴団は函館まで追いかけ、船に乗る長官をようやく捉まえることができた。

驚いた長官は「そんなことで、ここまで来るとは何事だ」と怒りを爆発させた。必死の思いで嘆願する直訴団の姿に執念を感じたのであろうか、また、その背後で支える開拓民の思いに気づいたのだろうか、長官はついにこう言った。「己が悪かった。分割払い下げを中止する。水源涵養のことも安心せよ。村に帰り村民に報告するといい」

森を守った先人の思い
明治時代のこの直訴によって野幌の森は残った。もし、森がなくなっていたら、この地は札幌の一大ベッドタウンか、もうひとつの大きな大都市ができていたかもしれない。野幌の森は、戦後トドマツの貴重な純林が残っている原生林として、タンチョウやマリモと共に数少ない国の特別天然記念物に指定された。ところが洞爺丸台風(昭和29年)で森は壊滅的な打撃を受けた。特別天然記念物の指定は一部を除いて大半が取り消されたが、その後、自然公園に指定され、森林公園として今日に至っている。

11月下旬の3連休の一日、野幌の森を救った関矢孫左衛門の孫から直接話しを聞く機会があった。孫といっても74歳、農業の研究者としてのライフワークを終えた物静かな人だ。現在、直系の子孫として、歴史的価値のある孫左衛門の遺品などを大切に保存している。

その中で孫曰く、祖父が必死になって野幌の森を守ったのは、新潟の農村で里山のありがたみを、よく知っていたからではないかという。里山は山菜や木の実から薪まで提供してくれる自然の思し召しである。入会(いりあい)と称して農村社会の共有財産であった。今日過疎化が進んで、里山が荒れ放題という声を全国各地でよく聞く。この里山を守ることが村民を守ることだという思いが強かったのだろうと孫は言う。

当の関矢孫左衛門は一介の農民ではなかった。孫左衛門は長岡に近い魚沼の豪農の出で、若くして69銀行、今の北越銀行の初代頭取となり、衆議院議員にもなった地域の名士であった。その彼が開拓の北越殖民社の社長になったのは、初代社長の長岡藩士が急死したためで、開拓当初の苦難を乗り切るために開拓者に請われて2代目社長になったという。講演者は孫左衛門が養子だったため、気楽に移住できたのではないかというが、困窮する開拓民を放って置けなかったのだろう。野幌に入った新潟の開拓団は、北海道あちこちに入った全国の開拓団の中で、最も成功した開拓団のひとつであった。

故郷を思う先人の遺産
孫左衛門が住んでいた屋敷の庭の一部は、「千古園」として開放され、江別市の文化財の第一号になっている。
いまでは桜の名所である。その庭には新潟から持ってきたというブナが、広く枝を伸ばしていた。(写真右:07.4.25)
望郷樹とか郷愁樹と言われている。推定樹齢120年の大木だ。故郷を離れて北海道に移住した先人の思いが、凝集された樹である。



講演者の孫は孫左衛門の末の子、つまり孫から見るとおじさんにあたる末子が描いたという開拓の様子の絵を数点見せてくれた。絵心のあるおじさんだったという。そのうちの1枚、写真左の右上には「開墾の敵は樹木だけでなく、網の目のように張る笹も開拓者を泣かせた。1本づつ笹を刈り、手を血だらけにして根を掘った」と書いてあった。丹念に見ると当時の開拓の様子がよくわかる。



現代人の心を潤す野幌の自然
野幌の森は雪がちらついたと思うと青空が見え、木漏れ日のように光が樹の間から直接地面の雪を照らす。森の天気は激しく変わる。空を見上げると木の上の方でコクワの実がたわわになっていた。コクワ(和名サルナシ)はツル性の植物で、他の高木に巻きついて生きている。この時期のコクワは甘くておいしい。

枝が揺れた。エゾリスがいた。(写真右)エゾリスは夢中になってコクワを食べていた。そのしぐさをしばし見とれた。実にかわいい。森は人間だけでない。動物にとっても貴重な財産だ思った。(完)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。