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北海道神宮と初詣
【北の国からのエッセイ】 2009年01月13日

正月3が日の北海道神宮の初詣客が79万2000人と発表された。去年より数千人多いという。私も毎年参拝し、今年の賑わいは例年以上だと感じていた。(写真右:1日)3が日が余り冷え込まなかったこともあろうが、不況で苦しいときの神頼みが多かったのだろうか。

日本人の多くは、葬式になれば普段接触のないお寺に頼み、新年になれば神社に足を運ぶ。確固たる宗教心に基づくというよりは、慣習として行動しているような気がする。

それにしても79万人とは非常に多い。札幌の人口は190万人である。仮に周辺市町をいれたとしても、ざっと3人にひとりが参拝したことになる。それほど北海道神宮で参拝するご利益はあるのだろうか。それとも北海道神宮は他の神社と違って特別な意味があるのだろうか。


開拓の原点
函館戦争で榎本武揚率いる旧幕府軍を制圧した明治新政府は、明治2年、蝦夷を北海道と改め、北海道統治に乗り出す。 現地責任者としての大役を仰せつかった肥前藩士・島義勇判官(しまよしたけ:判官は役職で、今の副知事相当職か)は、明治天皇から直々に国造りの神・開拓の神・お酒の神の3神をおし戴き、道中肌身離さず持って札幌に入る。これらの3神を円山の麓に安置したところが札幌神社となり、今日の北海道神宮である。島義勇が籠を担ぎ、札幌入りした当時の姿を再現した等身大以上の立像が、本殿に入る前の一角に建てられている。(写真左:1日)いつもは烏帽子が雪をかぶっているが、暖かい今年は溶けて雪はなかった。

当時の札幌の人口は、和人がわずかに十人ちょっと、島判官は未開の原生林に覆われた当地に、京都のような碁盤の目の街づくりをめざして本府を作り、官舎建設に乗り出す。

北海道開拓はここから始まる。

当時の札幌は、資料によると

札幌の地は弥望曠原(びぼうこうげん)、民家僅かに二戸、
熊狼 黄茅白葦(こうぼうはくい)の間に出没し、
厳冬に至れば則(すなわ)ち積雪丈余、沍寒(ごかん)石を裂く


当時の札幌は、見渡す限り広い原野で、民家はわずかに二戸しかなかった。枯れて黄色くなった茅や白くなった葦の間に、熊や狼が出没し、厳しい冬になれば、積雪はたちまち十尺、3メートル余りに達し、寒さで石が裂けるほどであった。以降、北海道は「県民のるつぼ」といわれるほど全国・46都府県から入植者が相次ぐ。

大きく分けて
1.明治新政府にいじめられた旧幕府軍城主が新天地を求めて、藩挙げて北海道に移住した伊達亘理藩や岩出山藩、徳島稲田藩など

2.貧困の農民を救済するため開拓団を組織して新天地を求めた民間組織、十勝に入った伊豆の依田勉三の晩成社や、北見に入った高知の坂本直寛(坂本竜馬の甥)の北光社など

3.明治以降失職した武士を救済するため、平時は農民、有事は軍人になる屯田兵として移住した人たち。

これらの人たちによって、北海道は冷害や蝗害などに苦しめられながら開拓が進んでいく。徳島稲田藩については「北の零年」(吉永小百合主演)、依田勉三の晩成社については「新しい風、若き日の依田勉三」で、開拓の模様が映画化されている。


道産子
馬場を颯爽と走る競走馬はサラブレッドであるが、もともと北海道にいた土着の馬はドサンコと言われている。
また北海道出身者を道産子ともいう。「私は道産子です」こうした挨拶が日常会話でよく聞かれる。では、単に北海道出身者を道産子というのだろうか。

最近まで官房長官や外務大臣を務め、いまや自民党最大派閥を率いているのは町村信孝である。信孝のお父さんは北海道知事で、戦前は警視総監だった町村金吾である。その金吾のお父さんは青雲の志を抱いて、札幌農学校二期生として内村鑑三や新渡戸稲造らと一緒に寄宿生活をし、机を並べた町村金弥である。金弥は日本に酪農を導入したエドウイン・ダンのもとで真駒内で勉強した日本酪農の先駆者であり、江別に町村牧場が今もある。右の写真は金弥の学び舎でもあった札幌農学校演武場(今の札幌時計台・重要文化財)に掲げられている金弥の写真である。

この華麗な一族のうち、本州からきた金弥は道産子ではない。金弥の子供で北海道で生まれた金吾からが道産子である。つまり北海道2代目から道産子である。町村信孝のおじいさんは北海道開拓の初代であり、おじいさんというとそう昔の話ではない。子供さんは4代目、お孫さんがいるなら5代目ということになろうか。

開拓が始まって140年、まだ歴史が浅い北海道では個人のルーツはかなりはっきりしており、そういう意味ではいまの60代以上の道産子は、おじいさんおばあさんから開拓の苦労話をいろいろ聞いて育ったことだろう。道産子にとって、開拓の歴史は乾いた過去の歴史ではなく、まだぬくもりのある歴史でもある。北海道開拓と密接な関わりのある北海道神宮に参拝した初詣客は、それぞれの思いを持って手を合わせたことであろう。

ちなみに私はというと、新潟生まれでサラリーマン退職後東京から札幌に住み着いたので、道産子ではない。けど、息子が札幌勤務時代に生まれたので、息子は正真正銘の道産子である。


明治の黎明期を駆け抜けた島義勇
北海道開拓の礎を作った島義勇判官は、公家出身の北海道開拓使長官と仲悪く、お公家長官は島をクビにしなければ自分が辞めると言い出したことから、当時の実力者だった開拓使次官の黒田清隆は島をわずか5ヶ月で更迭する。更迭といっても黒田は島の力量を知っていたのだろうか、左遷することはなく、むしろ出世して文部省の局長から秋田県令までなる。

ところが中央で活躍していた同郷・肥前藩士の江藤新平が、大久保利通らと意見が合わず野に下ったとき、島も職を辞し、明治7年佐賀の乱を起こす。佐賀の乱は瞬く間に鎮圧され、薩摩と四国に逃げた首謀者の江藤と島は捕らえられて斬首晒し首の刑を受けて野露に消える。日本の歴史上、最後の晒し首の刑になった男である。高校時代の歴史の教科書に、その写真が載っていたことを鮮明に覚えている。

島判官の非業の死を聞いた判官の付け人で、札幌の隣の当時の手稲村に住んでいた福玉仙吉は、上司の島判官の霊を慰めようと、手稲山からエゾヤマザクラ150本を採取して北海道神宮に献木する。献木は鳥居から本殿に向かう長い玉砂利道の左右に植えられ、以降北海道神宮はサクラの名所となる。仙吉が献木したエゾヤマザクラは、10年ほど前、最後の1本が枯れてしまった。代わって地元のライオンズクラブが寄贈したエゾヤマザクラが、2代目として毎年5月に見事なピンクのトンネルを演出し、隣接する円山公園とあわせて道内一のサクラの名所となっている。写真左は本殿に向かう初詣客、左右の木はすべてエゾヤマザクラである。(1日)


五州第一の都
島義勇の像は北海道神宮のほかに、もう一箇所建てられている。札幌市役所1階ロビーである。侍姿の島判官が円山地域の山に登って、これから碁盤の目の町をつくろうとする石狩平野を睥睨している立像である。(写真右)

今の内乱罪に相当する国家反乱の首謀者を、1階ロビーの特等席に建てたことについて、歴史小説家から問われた当時の札幌市長は次のように答えている。

歴史上の人物にはそれぞれ生まれてから死ぬまでの過程がある。
ある時期だけを捉えてその人物を全面的に否定するのは間違いだ。
島義勇にも年齢に応じた功績があり、とくに若い頃は札幌開拓の大恩人だった。
国家反乱人になったのは後半のことで、札幌市とは関わりがない


この話を聞いた歴史小説家は

「目からうろこが落ちた。その歴史観は正しい。以降私は歴史上の人物をそのように見るようにしている」
と自らの著書に書いている。

島義勇は江藤新平と共に後年、明治の黎明期に貢献したとして名誉回復し、叙勲を受けた。島判官が立つ台座には、札幌入りした島が札幌の将来を見通して詠んだ漢詩が刻み込まれている。

          河水遠く流れ 山隅に峙(そばた)つ
          平原千里の地 膏腴(こうゆ=肥沃なこと)
          四通八達宜しく 府を開くべし
          他日 五州第一の都


最後のくだりの五州とは本州とか九州のことでなく、オリンピックの5つの輪である。長き鎖国から目覚めたばかりでちょんまげ頭が横行し、まだ世界の全貌も十分認識していなかった明治2年、原野の札幌に立った島判官が、いずれは世界一になる都市を作るんだという遠大な構想を描いたことに驚嘆する。その100年後、札幌でオリンピックが開かれ、今では日本で5番目の大都市にまで成長した。

河原の刑場で散った島義勇が、札幌が自らが描いたような碁盤の目の大都市となり、自らが種を播いた神社に80万人の参拝客が訪れたことを知ったらどう思うだろうか。

歴史は面白い。(完)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。