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ニシンが群来(くき)た!
【北の国からのエッセイ】 2009年03月26日

先月下旬から今月にかけ、小樽沿岸の日本海が乳白色に染まった。産卵のため沿岸に寄って来るメスを追って、オスが放出した精子で海面が白くなった。(写真右:NHKテレビから)海が白く染まるくらいだから、その数は万を超える大群だ。その現象を群来(くき)という。

7日になって、小樽の隣の石狩町沿岸も群来たという。半ば死語となって忘れられていた言葉がよみがえった。それは同時に、歴史の世界になりつつあったニシン漁の栄華を現代に引き戻した。


幻の魚 春告魚
 
小樽漁協によると群来の一報は、小樽の郊外の天狗山スキー場のスキーヤーからもたらされたという。天狗山スキー場は日本海に向かって飛び込むようにスロープがある。「海が白くなっている」さぞびっくりしたことであろう。 以来、すでに数回群来があったという。

ニシンは漢字で「鰊」と書くが、「春告魚」とも書く。産卵のため海岸に近づく2月末から4月が漁期で、まさにニシンの
到来は、冬の厳しい北海道に春近しを告げるタイマーだった。

ニシン漁は江戸時代から盛んになり、明治・大正・昭和と北海道の日本海側は、毎年春になるとニシン漁で賑わった。とりわけ明治30年代は最盛期だった。一攫千金を夢見たやん衆(北海道で、ニシン漁などに雇われ働く男たち)が本州東北から大挙押しかけ、網を引いた。
♪ヤーレン ソーラン ソーラン ソ-ラン ソーラン ソーラン (ハイハイ)
にしん来たかと 鴎に問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ
ヤサ エーエンヤーサーノ ドッコイショ (ハー ドッコイショ ドッコイショ)♪


日本の代表的な民謡「ソーラン節」も、もとはといえば、ニシン漁のときに威勢よくやん衆によって唄われた歌である。海の色を変えるほどすさまじいニシンの群来と、それを追う人間の営みは小説にもなり、映画にもなった。

そのニシンが1954年(昭29)になって、パタッと止まった。なぜニシンは来なくなったのだろう。乱獲か、水温上昇か、森林伐採の影響か、はたまた太陽の黒点と関係があるなどなど、いろいろな説が言われているが、現実にニシンは姿を消してしまった。町は寂れ、寒村となった。

「いまなお3月になると、海をじっと眺めている古老がいるんですよ」留萌でこの話を聞いたとき、哀しさを通り越して、同じ場所にじっと耐えて生きている老木のように思えた。(写真右:留萌沿岸  06年7月)

産業遺産の仲間入り
北海道の日本海沿岸には、ニシン漁の栄華を偲ばせる漁場が「産業遺産」としてあちこちに残されている。もっとも有名なものは、留萌市の北隣の小平町の「花田屋番屋」で、重要文化財に指定されている。(写真下右:02年7月)

 

一つ屋根の大きな番屋に、親方とやん衆の居場所は歴然と区別されていた。やん衆は組別に組織されて2階3階のタコ部屋のような所で寝起きし、食事は広い板間で囲炉裏を囲んでみんなで食べた。(写真上左)番屋の中には当時の漁具が所狭しと展示されている。番屋や漁家には、出稼ぎのやん衆の3か月分の米と醤油・味噌とたくあんを収めるための倉庫が必ず設けられていた。

小樽の青山家漁家の立派な鰊御殿は、札幌郊外の「北海道開拓の村」に移築保存されている。(写真下左:8年5月)岩内の博物館に保存されていたオルガンは、地元の漁家が車両を借り切って東京から運んできたものだと聞かされた。

余市の福原漁場では、身欠きニシンを作る干し場が保存されていた。(写真下右:05年10月)
  
 

北海道日本海沿岸を歩くと、いたるところにニシンの残した遺産が文化財として保存されている。これらの産業遺産を見て歩くと、北の海を舞台にダイナミックに生活していた人たちの光と影が十分伝わってくる。

北海道庁旧本庁舎(通称赤レンガ庁舎)の廊下には、明治時代の開拓の様子を描いた絵が20数点展示されている。明治の建物としてはいち早く重要文化財に指定された昭和44年、記念事業として文化勲章受章の画家ら当時の大家に描いてもらった。

その一つに積丹の海でのニシン漁の模様の絵が展示されている。(写真下左)この絵には防波堤のようなものが海に出ている。 積丹半島にはニシンの千石場所といわれる漁場があちこちにあり、漁家は捌き切れないニシンを一時的に活かしておくため、切澗(きりま)と呼ばれる現代版生け簀を作った。切澗は天候の急変でも、ニシンを放棄しなくてすむという大きなメリットがあった。

 

泊村を訪れたとき、その切澗を見ることができた。切澗は防波堤となり立派な漁港になっていた。(写真上右:6年8月)高台には川村家番屋の立派な鰊御殿が保存されていた。

ニシンの行方
それでは、当時獲っても獲っても捌き切れなかったニシンは、どのようにして処理されていたのだろうか。当時は冷凍技術など普及されていない時代である。おいしいニシンをナマのまま食べることは、産地を除いてまずなかったのだろう。

食料としては身欠きニシンとして加工され、本州に運ばれた。それも全体から見れば僅かなものだった。水揚げされたニシンは、待ち構えた女子供が運び屋となって、背中に担いでいたモッコに入れられ、大ガマに運ばれた。(写真右:北海道開拓記念館)ニシンは大ガマでゆでられた後、絞って油となり、残りかすは肥料として本州に送り込まれた。ただ、数の子は干して重宝され、高値で取引されたという。当時から黄色いダイヤと言われたかどうかはわからない。幼きとき食べた数の子は、硬くてくすんだオレンジ色だったと記憶している。

女子供が担いだモッコの背の部分は突き出ている。(写真左)これは背負ったモッコをいちいち下ろすのではなく、前にしゃがめばニシンが女子供の頭を通り越して滑るように落とすためである。このモッコはどこの番屋に行っても展示されていた。

ある番屋に次のような立て札が立っていた。

ニシンは毎年春になると、ニシン雲りの海に大きな群れをなして到来。
浅瀬の海草に産卵する光景は月夜に照らし出され、牛乳を撒き散らしたようになる。
学校には赤旗が上がり、水揚げを競う浜辺はモッコを背負う女と子供が主役である。
北の日本海は凪が短く荒れると怖い。
やがて雪解けの春が訪れ、ゴメ(カモメ)が舞う頃、今もなお「一攫千金、夢よもう一度」と氏神様に手を合わせる人もいる。
もはや永遠に幻の魚になったのであろうか。


この立て札の隣に、上記写真のモッコを担いだ女性の像が立っていた。

旬のニシン
ニシンは1999年、45年ぶりに留萌沿岸に姿を現し、大騒ぎとなった。しかしそのあとは続かず、焼尻島と小樽で一度群来ただけだという。それが、今年は群来た回数でも、場所の広がりでも最近にない現象だという。もしかしたら幻の魚が再び戻ってくるかも知れない。

9日、家内の後ろについて、スーパ-マーケットに行った。ニシンが一つ一つケースに包まれ、山ほど積んであった。(写真左)石狩湾産と表示されているので、小樽で獲れたものだろう。高いかどうかは私にはわからないが、家内は、他の魚と比べて高い。もっと安くなるのではという。オスよりメスが高い。

4時間後の夕方、今度は1人でスーパーを覗いた。山ほどあったニシンは一つもなかった。ニシンは首都圏など本州にも運ばれていることだろう。石狩湾産と表示されていたなら、小樽近海で獲れたものである。幻から戻ってきた旬のニシンを、巧みに細い骨を寄せながら味わうのもこの季節しかない。(完)



※本記事は、3月上旬にご寄稿いただきましたが、事務局の不手際で、遅れての掲載となりました。
心よりお詫び申し上げます。
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。