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北海道から総理大臣誕生
【北の国からのエッセイ】 2009年09月28日

「鳩山由紀夫君を本院において内閣総理大臣に指名することに決まりました」

北海道選出(9区)の議員が行政機関のトップになったことを、同じ北海道選出(1区)の議員が立法機関のトップとして、朗々と宣言した。三権の長の2つを北海道選出の議員が占めた。総理大臣も、衆院議長ももちろん初めてだ。

へえ~ 世の中変わったなあ。

地元室蘭では鳩が飛ばされ、スーパーマーケットでは810円(ハト)の品物が並んだ。北海道に住んでいる者にとって決して悪いことではなく、ここはへそ曲がりなことを言わず、素直に「喜ばしいことです」と申し上げたい。

国有地払い下げ
今から25年前の昭和61年、東京の人、鳩山由紀夫は突然、当時中選挙区だった北海道4区から立候補した。

なぜ鳩山が北海道から?誰しもが思った。華麗な閨閥の中で育った都会のやさ男が、土と石炭で汚れた空知(そらち)の大地に立った。もっとも不釣合いな組み合わせだった。

北海道庁古文書館の地下倉庫の山のような文書の中に、写真のような公文書が保存されている。

「明治28年 未開地貸付台帳 北海道庁」

ここには明治28年に、当時の北海道庁が未開の土地を貸し付けた書類が収められている。これをぺらぺらとめくると「石狩国空知郡栗沢村字栗山」に土地を借りた人の名前が書いてある。

日本の国土の22%を占める北海道には、幕末6回も探検して、当時蝦夷地にもっとも精通していた松浦武四郎の意見を取り入れ、11の国と86の郡があった。借地人は「東京都小石川区音羽」の鳩山和夫である。貸付地積は35万3116坪と記入されていた。東京ドームのほぼ8倍に相当する面積だ。平地に立って目に見える範囲の土地すべてといってもいいだろう。

鳩山和夫は由紀夫のお爺さんの鳩山一郎元総理の父であり、明治時代の衆議院議長でもあった。鳩山和夫は文部省の第1回留学生(明治8年)で、文書館のある旧北海道庁舎(通称道庁赤レンガ庁舎:重要文化財)を作った平井晴二郎(後の鉄道院副総裁)と一緒に留学した数少ない仲間である。これも何かのご縁か。東京の鳩山和夫は不在地主としてこの土地を所有し、本州各地から入った農民が小作人として働いた。

 

明治2年蝦夷を北海道に改めて開発の乗り出した明治新政府は、当初開拓の担い手として屯田兵制度を設けた。「非常時に軍人、平時は農民」という屯田兵制度は、失職した武士の受け皿となったが、広大な北海道の開発には限度があった。明治19年に未開の国有地を無償で貸付、一定の限度内に開墾すると、ほとんどただ同然で払い下げる「未開国有地貸付制度」が設けられた。この制度に日清戦争の勝利などで次第に資本力の付いた財閥・政商や高級官僚が飛びついた。東京文京区にある鳩山家の音羽御殿の富の蓄積はここから始まった。

不在地主
この「民活導入」で北海道の開拓は飛躍的に進んだが、その実態は持てる者の不在地主と、高い小作料に苦しむ持たざる者の小作人との関係を際立たせ、各地で小作争議が起こった。鳩山農場も例外ではなかった。むしろ政友会内閣書記官長として名門で国家権力と直結している鳩山一郎の所有する農場の争議として、当時世間の注目を浴びたという。(栗山町史)

小作人の代表は42人連名の嘆願書をもって上京した。この直訴については内務大臣と北海道長官あてに、警視総監から特高の情報として通報がきている。(昭和18年3月30日)直訴した代表の1人は、後年「本尊の地主様はゴルフとかいうものをしていることがわかっているのに、薫夫人がでてきて、主人は不在だと門前払いを食わされた。これでは何のために部落の皆から旅費を集めて上京してきたのかわからず、まことに腹が立った」と述懐している。

不在地主と小作人の関係は、戦後のGHQによる農地解放によって終焉した。残されたのは鳩山という地名と、鳩山という名のついた神社や池、川だけで中身は空っぽになった。

カインの末裔
「或る女」「生まれ出づる悩み」「惜しみなく愛は奪う」などなど、数々の作品を世に出した有島武郎は、明治から大正にかけて当代一流の作家だった。彼は幼き頃、大正天皇のご学友だった。ご学友になるくらいだから、いわゆる「いいとこのお坊ちゃん」だ。

ところが、学習院の初等科・中等科をでた武郎は、なぜかそのまま進学せず、新渡戸稲造を頼って札幌農学校に進んだ。大蔵省の高級官僚だった父・有島武は、息子の非常時のことを考え、山越郡狩太(かりふと)、いまのニセコに農場を作った。「鳩山」と同様ここでも「有島」という地名が今でも残っている。(写真右:旧有島農場跡地に立つ有島武郎  6.6)

ニセコは雪が5m以上積もる豪雪地帯で、5月になってようやく雪解けが始まり、短い夏は濃霧と強風が吹き荒れる道内では最も条件の悪い開拓地であった。高い小作料を払うために牛馬のように働き、風雪が隙間から入る粗末な小屋で、稚児を抱えて生活する小作人を目の当たりにして、キリスト教に入信していた武郎は父親に対し「土地は使うものが所有すべきではないか」と主張した。

「何を言うか、世の中知らずのばか者が」
親の気持を知らない息子の抵抗に、武は困惑しながら父親の威厳で突っぱねた。武郎は「父から何をされようと屈することがなかったが、涙を流して自分を説得する父の姿には参った」と後年言っている。

また、武郎の作品「親子」には「一丁ほどの険しい赤土の坂を上っていた72になる彼の父は、息切れがしたと見えて途中で足をとめて振り返った。わき見をせずその後について行った彼はあやうく父の胸に顔をぶつけそうになった。父は彼を苦々しく尻目にかけた。自分とはあまりにもかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な無作法が癪にさわったのだ」農場所有をめぐって対立する父と長男との関係がこのように描かれている。

父の死後 武郎は行動に出た。小作人を全員農場内の弥照(いやてる)神社に集めた。「これからは土地はお前たちの者である」農地の無償解放を宣言した。大正11年7月のことである。「小作人は神社の階段を転げるようにして下りていった」有島武郎の不朽の名作「カインの末裔」には、小作人が喜ぶさまをこのように書いている。(写真左:6年6月)





農地解放
弥照神社に程近い小高い丘に、「農場解放記念碑」が立っている。(写真右)

裏面に「父有島武開拓之子武郎解放之」 と刻まれている。画家有島生馬によって書かれた。(武郎・生馬・里見弴は実の3兄弟である)

武郎はこの記念碑には、「生産の大本となる空気・水・土地の如き自然物は、人間全体で使うべきで、1個人の利益のために私有されるべきものではない」(原案)と、農地解放の意味を直截的な表現で書きたかったが、私有財産制を否定するような言動に対する官憲の目が厳しく、碑のような表現に落ちついたという。

『この韻を踏んだ碑文を見つめていると、小作人に仮借なく臨んで開拓に励んだ父と、解放という文字に見る大正期インテリの子の苦悩など、明治・大正という時代をそれぞれ真摯に生きた「父子」との断層が改めて胸に迫ってくる』
有島農場跡にたつ有島武郎記念館にはこのような説明文が添えられていた。

3年前の6月、北海道文学館の元館長とこの地を訪れた。碑の周辺は草ぼうぼうだった。「この歴史的な碑と神社がなぜ整備されないのだろう」  元老館長はつぶやいた。

鳩山神社と弥照神社
開拓に入ったどの農場も、豊作と安全を願って神社を作ったらしい。しかし、鳩山神社と弥照神社が残した影響は月とすっぽんだった。

ここに一つの資料がある。昭和61年の第38回衆院選北海道4区の結果である。鳩山由紀夫が初めて、政界に進出したときの選挙である。

鳩山神社のある栗山町で、由紀夫がずば抜けて票をとってはいない。むしろ自民党3候補の中では最下位だ。この票の出方を見る限り、鳩山様がきたと栗山が燃えたという雰囲気は伺えない。むしろ、農民運動に身を捧げた農民党・小平党の小平忠の突出した票が目立っている。

それでも由紀夫は2番目の得票で高位当選した。これは当時一番の大票田だった室蘭を地盤にしていたためである。室蘭にも由紀夫を受け入れなければならない事情があった。戦後、室蘭に圧倒的な力を発揮した佐藤派の重鎮南条徳男のあとを継いだ三枝三郎(自治省の役人で道副知事)が、力を持たないうちに落選引退したあと、どうしても室蘭から南条の地盤を継ぐ政治家がほしかったのだ。

4区から出馬するにあたって、ほとんど死語だった鳩山神社があると言ったのは4区との接点を強調したに過ぎない。当のご本人は「落下傘部隊をここまで育てていただいたことに感謝している」と、「友愛」と言う言葉を口にしても、いやらしさを感じさせない育ちのよさで誠実に述べている。

参拝客などほとんどなかった鳩山神社は脚光を浴び、報道によると連日100人ほどが訪れているという。知名度は弥照神社よりはるかに高くなった。思想家堺利彦をして「トルストイを凌ぐ」と言わしめた農地解放の原点・弥照神社が、総理大臣を生んだ鳩山神社の前にかすんでしまいそうだ。

差別を助長した不在地主制度の恩恵をうけて育った鳩山由紀夫が、格差社会を是正する国のリーダーとして登場した。歴史の皮肉を感じる。

栗山町は何度も車で通り、鳩山という地名のある看板もみている。けど、鳩山神社には一度も行ったことがない。こんど通過するときは寄って見よう。ご利益があるかもしれない。

栗山町一帯はクリの北限である。(写真右:馬追丘陵より栗山町をのぞむ 9年2月)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。