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クラーク像 35年ぶりのお清め
【北の国からのエッセイ】 2009年10月01日

札幌を訪れる観光客が「ああ北海道だなあ」と実感するところに「羊が丘展望台」がある。広い牧草地に放牧されている羊の群れ、その向こうにすっかり有名になった札幌ドーム、そして近代的な札幌の街並み・・・これらが一同に見えるところが羊が丘展望台である。

その展望台のおへそのような役割を果たしているのが、遠くを指差すクラーク立像だ。クラーク像が当地に建てられて35年、今月初めて大掛かりな清掃が行われ、クラークさんは建立当時と同じような輝きを取り戻した。

羊が丘とクラーク博士
クラーク像の背後に牧場があるため、クラーク博士がこの地で学生に大志を抱けと説きつつ農業を教えたのかと思い込む観光客が多い。最初から本当のことを申し上げると、羊が丘とクラーク博士とは全く関係ない。

クラーク博士は明治9年北海道大学の前身の札幌農学校ができたとき教頭として迎えられ、大きな功績を残した。その功績を称えて、キャンパスにはクラーク像の胸像が立てられている。その胸像も戦時中金属の供出で鉄砲玉になったが、原型が残っていたため、戦後復元されて今日に至っている。(写真左:7年4月)

そのクラーク博士を見ようと観光バスが連日北大構内に入った。観光バスラッシュに音を上げたのが北大当局である。これでは落ち着いた学園を維持できないと、観光バスを大学構内から締め出した。クラーク像を見にいくには歩いてしか行けなくなった。

札幌観光の大切な目玉をもっと活用しようと考えたのが札幌市観光協会で、35年前に羊が丘展望台に新しいイメージのクラーク像を建てた。今では、こちらのクラーク像が有名になり、北大構内の本家のクラークさんはひっそりとしている。

少年よ大志を抱け
羊が丘のクラーク博士は、左手を腰に右手は遥かかなたを指差している。なかなか格好のよいポーズだ。高さ2mの台座の上に立つ2.85mの立像なので相当大きい。

指はどこを指し、何を意味しているのだろう。大志を抱けと無限の世界を指差しているのだろうか、それとも指差している方向に何かがあるのかな、と視線を向けると丸々太った羊がのんびり草を食んでいる。(写真下)制作者の坂 担道によると、真理の探究を象徴したものだという。それにしても何を意味してるのかなと思わせるのがよいところで、実に堂々とした立像だ。

クラーク博士が札幌農学校に迎えられる前は、マサチュセッツ州立農科大学の学長だった。学長を一時退き1年契約で来日したが、実際には8ヶ月ちょっとしかいなかった。別にいやになったから、帰ったのではない。当時の契約はドア・ツウ・ドアで、東部のマサチュセッツから大陸を横断して西部のサンフランシスコへ、そこから船で太平洋の荒波に揺られて横浜へ、そして札幌まで来るのに片道2ヶ月は要したからである。明治9年のことである。

わずか8ヶ月しかいなかったのに、なぜ後世まで名が残る超有名人になったのだろう。8年近くも総理をやりながら人気のない政治家もいたのだから、長いからよいというものではないようだ。

学長に復職するため札幌を去るクラーク博士を、学生は名残惜しく馬で一緒について行った。札幌と千歳の間に島松という所があり、そこに駅逓(えきてい)があった。(現北広島市)ここで休憩したあとクラーク博士は、学生に対し「君たち もうここで別れよう」といい、ひとりひとり顔を覗き込むようにして固い握手をした。涙を流しながら別れを惜しむ学生に対し、発した言葉がBoys be ambitious.であったという。その言葉が実像以上にクラーク博士を大きくし、後世に名を残したといえそうだ。

惜別の言葉を残したクラーク博士は馬に一鞭あて、室蘭を目指して一度も振り向くことなく、春浅い雪泥の道を蹴ったという。お別れのシーンの絵が旧北海道庁(通称赤レンガ庁舎・重要文化財)の廊下に北海道開拓時代の一こまとして、掲げられている。(写真右)

実はクラーク博士は単に Boys be ambitious と言ったのではないようだ。そのあとに like this old man. と言ったと直接薫陶を受けた一期生が証言している。


紳士たれ!
教頭として迎えたクラーク博士に、時の開拓使長官・黒田清隆は「学生に最高の道徳を教えてほしい」と要請する。これに対しクラーク博士は即座に「最高の道徳はキリスト教である」と答えたと言う。

わずか9年前まで邪教として厳しく禁じられていたキリスト教を黒田は容認し、クラーク博士にすべてを任せる。
学校を新設するに当たり、事務方が作った細密な校則を見せられたクラーク博士は「こんなことで人間が造れるか、校則は Be gentleman(紳士たれ!)これで十分だ」こういって校則を破り捨てたという。クラーク博士の言動に一貫として流れた精神は  Be gentleman であったという。(写真左:北大博物館内)

個性的なクラーク博士
敬虔なプロテスタントであったクラーク博士は相当ストイックな性格だったようだ。

開校式のあいさつで
「長年にわたり東洋を暗雲の如く包んでいた排他的階級社会と因襲から抜け出すために、学生一人ひとりが高邁な志を自覚せずにはおきません。いずれ名誉と最高の地位を得る諸君は、欲望と情欲を制御し、あらゆる知識と技術を習得するよう願ってやみません。」
日本の開校式では考えられない表現を使って、クラーク博士は訓示している。

そうはいっても、超優等生ばかり集まった24人の一期生の中には授業についていけず、欲望に負けてススキノに沈没した者もいるという。

クラーク博士は学生の心に道徳を育むため、札幌を離れる前に「イエスを信じる者の誓約」を残した。この誓約にクラーク博士の薫陶を受けた1期生・2期生の熱心な信仰者が連名で署名している。(写真右:時計台内)

このほかクラーク博士は身長が150cmもない日本人の体格を見て、「米は食べるな、パンを食べよ。どうしても米を食べたいならカレーライスにして食べよ」など、個性的な足跡を残している。この結果、日本のカレーライスのルーツはクラーク博士だと、一部で言われてるがそれは違う。もっと早くから伝わってきている。

ただ、クラークさんを偲んで北大構内に、クラークカレーを出す教授中心のハイクラスな食堂がある。学会などで訪れる内外の研究者であふれ、予約しなければなかなか入れない。

札幌農学校の教え子
明治初頭の日本の最高学府は東京大学の前身の開成学校と札幌農学校しかなく、札幌農学校では授業はすべて英語で行われた。

開拓が始まってまだ10年も経たない札幌の原野で、キリスト教に基づく自由でリベラルな全人教育が行われていたことに、改めて驚きを感じる。ここから育った学生は「農学校の教え子」として農業よりはむしろ教育者として全国に散らばる。

悪行たたって落第ばかりしながらも戦後首相となった石橋湛山は、1期生の大島正健(旧制山梨中校長)からクラークの話を聞いて一生を支配する影響を受けたという。

戦後の教育界の混乱期に東大学長を務めた南原繁は2期生の新渡戸稲造(旧制一高校長:写真左)、矢内原忠雄は3期生の鶴崎久米一(神戸一中校長)と旧制一校で、新渡戸の薫陶を受ける。

とくに日本の軍国主義を批判して大学を追われ、戦後南原のあとをついで東大学長になった矢内原はこのように言っている。「明治の初年において、日本の大学教育に二つの大きな中心があって、一つは東京大学、一つは札幌農学校でした。この二つの学校が日本の教育における国家主義と民主主義という二大思想の源流を作りました。日本の官学教育は東京と札幌から発しましたが、札幌から発したところの人間を造るという教育が主流となることができず、東京大学が発したところの国家主義・国体論・皇室中心主義、そういうものが日本の教育の支配的な指導理念を形成しました。その極、ついに太平洋戦争を引き起こし、敗戦後日本の教育を作り直すという段階に今なっているのであります」矢内原にこうまで言われると、クラークさんなどと親しく言えなくなる。

偉い先生だったクラーク博士の晩年は、事業に失敗し不遇だったと言う。クラーク博士が臨終に臥したとき「わが生涯で唯一慰むるに足るは、札幌農学生徒へ福音を伝えたことである」内村鑑三(2期生)が臨終のさい立ち会った牧師から聞いた話として紹介されている。

羊が丘展望台のクラーク像の清掃は、札幌彫刻美術館友の会のボランティアによって行われた。きれいに清められたクラーク像は澄んだ秋空に映えた。

しばらくクラーク像を眺めていると、観光客がクラーク像の前で手を掲げる同じポーズで記念写真を撮っている。見ていると若い男は恥ずかしそうにポーズをとっている。(写真下左)もっと堂々とせんか、そんなヘナチョコじゃクラークさんにあやかれないぞ、と言いたくなる。

 

今度は女性がポーズをとっている。(写真上右)決まっている。実に堂々としたポーズだ。イザと言うときはやはり女性が強いのだろうか。
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。