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女1人 未開の地を行く(1)
【北の国からのエッセイ】 2009年11月12日

イザベラ・バード 47歳 イギリスの女性である。

彼女が1人北海道を旅行した。といっても何の驚きもない。ただ、旅行した時期が 明治11年 となると話が違う。当時の日本は開港したばかりで、そう簡単には奥地に旅行などできなかった時代である。しかも、和人もまだ奥地に定住していない北海道である。先住民族のアイヌしかいなかった未開の地を、外国人女性が1人訪れたとなると、そのうそほんと?と言いたくなる。アイヌ集落まで入った欧米人女性としてはおそらく初めての人であろう。

日本奥地紀行
イザベラ・バードは突然イギリスから北海道に来たわけではない。

横浜から入国したバードは東京・日光・新潟を旅したあと、山形・秋田・青森と東北各地を北上して北海道に入っている。研究者によると、バードが訪れた東北各地には記録が残されているが、北海道にはそのような形跡は何もないという。ただ、彼女はその旅行の記録を、本国の妹に手紙で伝えるという形式で詳細につづり、「日本奥地紀行」という本を出している。

まだ和人もあまり入ってない未開の北海道は、彼女の目にどのように映ったのだろうか。小春日和の一日、旅行記をもとにバードの研究者とともに、彼女の足跡の一部を辿ってみた。

苫小牧ー平取
バードは函館についた後、森町から船で噴火湾を横切って室蘭に渡り、幌別・白老・苫小牧を経て、アイヌ集落のある日高の平取(びらとり)に入っている。

私たちは苫小牧から平取まで、バードの歩いた道を辿った。室蘭から苫小牧を経て、千歳・札幌方向に行く道は、今の国道36号線で、道内主要工業都市を繋ぐ北海道の大動脈である。
ところが、苫小牧まで着いたバードは札幌には見向きもせず、ほとんど道らしき道のない海岸沿いの東に馬を向けている。

その分岐点に立ってみた。車の往来が激しい国道36号線に対し、東側には川があって橋がかかっていた。(写真左)写真手前からきたバードはまっすぐ札幌方向には行かず、右側の川沿いに折れた。その川も今は水の流れはなく、橋の下は遊歩道になっていた。

札幌方向にまっすぐ行くと、クラーク博士が札幌農学校を開いたほぼ同じ時期で、当時の札幌の人口は3000人余だった。バードは「日本奥地紀行」で次のように書いている。


私は札幌に至る「よく人の往来する道」から離れて嬉しかった。
私の眼前にはどこまで続くかわからないような、うねうねとした砂地の草原が続く。
ほとんど一面に、矮小な野ばらや釣鐘草に覆われている。
どこまでも好むままに道をつけて進めるような草原である。


寂しいところに入って嬉しいとはバードも変わった女性である。研究者は、バードの出身地スコットランド地方に似ていて、さほど違和感がなかったのではないかと推測する。矮小な野ばらとはハマナスのことで、イギリスにはなく、バードにとって初めてみる植物だったことだろう。(写真下左:勇払原野 06年8月)釣鐘草はツリガネニンジンと推定され、太平洋岸の海岸ではどこでも観察される。(写真下右: 同 06年8月)

 

勇払原野
バードは、さらに馬を進めた一帯の様子を次のように書いている。

私は微風の吹く海岸を進んでいった。
海岸は一方が海で一方が森林だった。
8マイル進むと湧別(今の勇払)に来た。
ここは私の心をひどく魅了したのでもう一度来たいと思う。
その魅力はこの土地を持っているものより持っていないものにある。


バードの旅には付き添いがいた。伊藤鶴吉という通訳である。江戸時代に来日したへボン(ヘボン式ローマ字の創始者)の助言をうけて、ヘボンの召使であった伊藤を通訳にしたとされる。バードは伊藤と二人三脚で東北から北海道と旅をした。

自分の心を魅了した湧別について、バードは

伊藤はこんなところに二日も滞在したら死んでしまうと言っている。
ここは荒れ果てた淋しさがこれ以上先にはあるまいと思われるような、地の果てといった感じがする。


と書いている。横浜に住んでいた都会っ子の伊藤にとって、誰もいない荒涼とした大自然のなかに取り残されては、たまらないことだっただろう。この辺りは勇払原野で、苫小牧東部大規模工業基地の建設予定地である。ところが、企業の進出は進まず、大規模工業基地構想はもう過去のものとなり、その景観はバードが見たときと今日とほとんど変わらない湿地帯である。(写真右)

沙流川
アイヌの聖域・平取の入り口となる佐瑠太(さるふと、いまの日高町富川)に着いた。ここは大河沙流川(さるがわ:写真左)の下流にあたり、対岸を渡って上流を遡れば平取に着く。

昔、飢饉に見舞われて食べるものがなくなったとき、アイヌの人が神に助けを求めたところ「ヤナギの葉を採取して川に流しなさい」というお告げがあった。村の者がその言葉通りヤナギの葉を流すと、やがて下流から大量のシシャモが遡上し、人々の飢えを救った」というアイヌの物語がある。沙流川一帯は今、シシャモ(柳葉魚)の日本一の特産地である。

バードは沙流川を渡るのに大声でその辺りにいたアイヌの少年を呼び、写真左下のような丸太舟に乗って川を渡してもらった。(平取町二風谷アイヌ文化博物館所蔵)

 

今月、沙流川には新たな橋が完成した。(写真上右)大変立派な橋だった。車でさっと通るにはもったいない。歩いて対岸まで渡りバードが丸木舟で渡った130年前を偲んだ。橋の名前は「紫雲古津川向大橋」。なんとも仰々しい、いかにもお役所がつけた名前である。この橋を「しうんこつかわむかいおおはし」とフルネームで呼ぶ人は誰もいないだろう。

この橋の袂に イザベラ・バードの案内看板が橋の開通にあわせて立てられた。(写真右)掲示板には、次のようなバードの一節が刻まれてあった。

私は2人の少年に案内してもらい、丸木舟に乗って佐瑠太川をできるだけ上流に遡ることにした。
この川は美しい川で、筆舌に尽くしがたいほど美しい森や山の間をくねくねと曲がっている。
たしかに今まで誰一人として、この暗い森に包まれた川の上に船を浮かべたヨーロッパ人はいない。


私はこの数刻を心行くまで楽しんだ。あたりは深く静まりかえり、淡青の青空が浮かび、柔らかに青いヴェールに包まれて、遠くは霞み「鈍化」されている。ニューイングランドの晩秋の小春日和のようなすばらしさであった。

道内に初めて立てられたイザベラ・バードの記念看板である。もしかしたら、この橋は仰々しい名前に代わって「イザベラ橋」として親しまれるかもしれない。

それにしても、イザベラ・バードという“飛んでる”旅行家が、何ゆえこの地を訪れたのだろうか。先住民族・アイヌの生活は、彼女の目にどのように映ったのだろうか、興味は尽きない。(つづく)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。