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北の国からのエッセイ
女1人 未開の地を行く(3)
【北の国からのエッセイ】
2009年11月25日
イザベラ・バードは外国をあちこち旅しているのだから、日本にも行きたいというのも自然であることがわかってきた。
では、なぜアイヌ部落に行ってみたいと思ったのだろう。当時日本でもまだ先住民族であるアイヌの実態がよくわからなかった時代にである。
また、道中は安全だったのだろうか。イザベラは単なる旅行家でなく、冒険家でもあるように思えてきた。
狩猟民族
イザベラ・バードが日本旅行後に書いた「Unbeaten Trackes in Japan」を「日本奥地紀行」として翻訳した著者によると、
イザベラは妹への手紙の中で、「横浜は雑然とした町で美しさが欠けており退屈なところだ。ほんとうの日本に逃れて生きたい」と書いている。彼女にとって文明社会は居心地が悪いものではなかったが、いつまでも安住していられるところではなかった。
翻訳者はこのようにイザベラを、「淑やかな婦人ではあったが、因習にとらわれない自由闊達な女性」であったと強調している。
また別の研究者は、
イギリス人はもともと狩猟民族である。大和民族は農耕民族であるが、イザベラは北海道にアイヌという狩猟民族が住んでいるということを知った。「日本でぜひアイヌの生活を見てみたい、外国人に知られてない地域にいってみたい。帰国したら、ヨーロッパ人が誰も踏み入れたことがない旅行記は、結構売れるのではないか。」イザベラはこう思ったのではないか、という。
現に東北・北海道を旅したイザベラは2年後に著した「Unbeaten Trackes in Japan」これを直訳すると、「いまだ踏み込んだことがない日本の道」ということになろうか、この本は増刷につぐ増刷になったという。(写真右上:アイヌ叙事詩・ユーカラを披露するアイヌの人 06年6月)
イザベラ(写真左)はヤワな女性ではないようだ。幼き頃病床に臥していた時期が長かったとはとても思えない。
イザベラはその後マレー半島・インド・チベット・オスマン帝国などにも入っており、これらの功績を称えて62歳のとき、学者でもないのに権威ある英国地理学会の特別会員になっている。女傑と言ってもいいだろうか、なかなか面白い人物だ。
仕掛け弓
通訳付きとはいえ、女1人で未知の地域に踏み込むことは容易なことではない。当時北海道では、「外国人は函館4里以遠行ってはまかりならん」というお触れがでていたという。
というのも、狩猟民族のアイヌの生活は、クマやシカを射止めるのが中心で、これらを食料や生活用品として使い、また毛皮やクマの胃などは重要な交易品であった。
狩猟は矢を射ることもあったが、多くは「仕掛け弓」で射止めていた。つまり、事前にけもの道に仕掛けて、クマやシカが踏み込んだとき矢が放たれ、矢に塗っておいた猛毒トリカブトによって倒れた動物を捕獲するという方法である。写真右:仕掛け弓(蝦夷島奇観より)
未開の地ではどこに仕掛けてあるかわからず、危険この上なかった。このため北海道開拓に入った明治新政府は、早々に仕掛け弓を禁じ、アイヌは主な生活手段を奪われた。そうはいっても目の届かない奥地では、仕掛け弓は引き続き秘かに行われていたという。明治の初めに苫小牧付近で、年間8000枚の鹿皮が獲れたという記録があるという。仕掛け弓でなければ捕獲できない数である。
トリカブトの調合は秘法とされた。また、近くに生えているエゾトリカブトに満足せず、もっとも毒性の強いオクトリカブトを求めて、遠方まで採取にでかけたという。
余談だが森に入って「これがトリカブトですよ」と案内すると、年配のご婦人は、怖いものがこんな近くにあるのかと驚き、自然観察の課外授業で植物に無関心な中学生も、トリカブトだけは目を輝かせて見つめる。(写真左:オクトリカブト 札幌市郊外 05年9月)
世間を騒がせた保険金殺人事件はもう何年前だろうか。トリカブトの知名度は抜群だと改めて思い知らされる。春の艶々した芽出しから秋の開花まで、孤高を守って生長するトリカブトは個人的には大好きな植物である。ほかの植物とは一味違うものを持っている。全草有毒であるが、根の部分が最も毒性が強い。
イザベラ応援団
女1人が未開の地に行くのに、いろいろ助け舟を出す人が現れた。
まず、幕末から明治初めにかけてのイギリスの駐日公使ハリー・パークスである。パークスといえば幕末期に、薩長をバックアップして倒幕に一役買った豪腕の外交官で知られている。(写真右)
日本奥地紀行にイザベラはこのように書いている。
普通 旅券には外国人の旅行する道筋を明記することになっているが、パークスは事実上無制限とも言うべき旅券を手に入れてくれた。
道筋を明記しないで、東北以北の全日本と北海道の旅行を許可しているのである。
この貴重な書類がなければ、私は逮捕されて領事館へ送り戻されたかもしれない。
イザベラは外交官特権に等しい許可証を持って東京を出発していたことがわかる。
それだけではない。イザベラが函館に着いたとき、イギリスの函館領事ユースデンは、外国婦人が初めて原住民の住む地方に入っていくというので、いろいろな配慮をした。イザベラの言葉を借りると
領事が当局に熱心に働きかけた結果、私は北海道長官から証文をもらうことができた。
これは一種の公文書あるいは証明書で、どこでも馬や人夫を一里6銭の公定値段で手に入れる権利を保証するものであり、役人が出張に使用するため維持している家で優先的に宿泊する権利であり、どこでも役人から援助を受けることができるというものであった。
言ってみればイザベラ・バードは、明治天皇の勅令によって発行されている旅券と、現地責任者の北海道長官が発行したスペートのエース見たいな証文を持って旅をしていたということになる。
また、パークスのもとで働いていたアーネスト・サトウ(写真左上:和英辞典の初編纂者で、イギリスにおいて日本学の基礎を作った外交官)と深い親交を持ち、サトウが作った和英辞典を持って日本探検にのぞんだ。
単に婦人の一人旅だからというだけで、 これだけの配慮を関係者はしたのだろうか。それともイザベラは魅力ある女実力者だったのだろうか。これらの配慮は、イザというときにそれなりの効果があったようだ。
しかし、自然の前では何の役にも立たなかった。イザベラは幾多の山川を越えて東北・北海道に入っている。とくに日光から会津若松、新潟から山形抜けなどは険しい。何度も馬から転げ落ちたり、川を渡るのに泥水に浸かったりしている。また道中ではハエやスズメバチに悪戦苦闘し、宿に入っても蚤(ノミ)・蚊・大蟻に悩まされて眠れない日が続く。「宿の畳からは蚤がぽんぽん跳ねている」と書いている。さらにヨーロッパ人を初めて見る地域の人の好奇な目にさらされながらの旅だけに、楽な旅とは思えない。横浜を出てから3ヶ月、イザベラ・バードは、ようやくアイヌ部落のある平取に着いた。(つづく)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。
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