_blank
     
女1人 未開の地を行く(5)~彼女が本州で見たものは~
【北の国からのエッセイ】 2009年12月15日

イギリス人女性旅行家 イザベラ・バードが、開国間もない明治初めに日本を訪れたことは先にご案内した。私自身が北海道に住んでいるだけに、どうしても イザベラが見た北海道は? アイヌは? という所に眼が真っ先に行ってしまった。イザベラが初めて会ったアイヌに関する考察は、とても新鮮だった。

イザベラ・バードは、北海道函館に着くまでに本州・東北を2ヶ月かけて歩いている。そして、各地の実情をきめ細かに書いているが、実はその描写にものすごい衝撃を受けた。余りにも農村が疲弊し、貧困なのである。

どちらが野蛮人?
イザベラ・バードは、日光に入る前の関東平野では
「こんなことを書いてよいものかどうかわからないが」
 と前置きしながら、
「家々はみすぼらしく貧弱で、ごみごみして汚い。悪臭が漂い、人々は醜く汚らしく貧しい姿であった」

また 日光を出て栃木から福島に入る街道にある小佐越(きさごい)という集落では、
「ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子供たちはひどい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働とひどい煙のため顔もゆがんでまったく醜くなっていた。
私は見たままの真実を書いている・・・日本はおとぎの国ではない。私はとても「文明化した」日本にいるとは思えない。6歳か7歳の小さな子供が軟らかい赤ん坊を背中に引きずっている姿を見るのは、わたしにはつらい」


イザベラはこのように書いている。日光から峠を越えて福島会津に入る会津西街道は、江戸時代 東北からの江戸に通じる参勤交代の街道だ。その街道沿いの農村がこの有様だ。明治11年頃の日本の農村はこんなものだったのだろうか。

福島から新潟に入った阿賀野川の津川付近では
「この地方の村落の汚さは、最低のどん底に到達しているという感じを受ける。鶏や犬、馬や人間が焚火の煙で黒くなった小屋の中に一緒に住んでいる。幼い男子は何も着ていなかった。大人でも褌だけしか身に着けておらず、女子は腰まで肌をさらしている。大人は虫で刺されたための炎症で、子供たちは皮膚病で身体中がただれている。
家屋は汚かった。彼らは胡坐をかいたり頭を下げてしゃがみこんでいるので、野蛮人と少しも変わらないように見える。彼らの風采や生活習慣に慎みの欠けていることは、実にぞっとするほどである。私がかつて一緒に暮らしたことのある数種の野蛮人と比較すると、非常に見劣りがする。」


日本の近代国家の黎明期は、まだ貧しかったんだろうなあと漠然とは思っていたが、イザベラの主観的な印象とはいえ、具体的な実態を突きつけられると、ショックで声も出ない。未開人と和人が言っていたアイヌの生活より悲惨だ。野蛮人以下と言われても何も言えない。

アジアの桃源郷
イザベラは、日本の貧しさや日本人の醜さを容赦なく書いている中で、新潟から山形の米沢に入ると、トーンが一変する。

「米沢平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、全くのエデンの園である。田畑は鋤で耕したというより、鉛筆で書いたように美しい。米・とうもろこし・煙草・麻・藍・大豆・茄子・くるみ・柿などを豊富に栽培している。実り豊かな微笑する大地であり、アジアのアルカディヤ(桃源郷)である。彼らは葡萄・いちじく・ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である」

イザベラが上杉鷹山(ようざん)を知っていたかどうかは知らないが、これらの記述を鷹山が読んだらどう思うだろう。

温泉場の赤湯は今の南陽市にあたり、イザベラにこうまでほめられた南陽市には、イザベラ・バードの記念碑とアルカディアの塔が建てられているという。

なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり

米沢藩再生の祖・上杉鷹山(写真左)が、家督を譲る際に詠み与えたとされる歌が、ずしりと響く。

四半世紀前、仕事で赤湯温泉に行ったことがある。田畑の中の温泉で、温泉郷というよりはヘルスセンターのような感じだったと記憶している。もちろん、イザベラ・バードのことはつゆ知らなかった。

都会には好印象
イザベラ・バードは、農村については米沢平野を除き、辛らつに暗く書いているが、都会については比較的好印象を持ったようだ。イザベラは、友人と会うためだろうか、わざわざ遠回りして国際開港場である新潟に寄っている。

「新潟は美しい繁華な町である。人口5万で裕福な越後地方の首都である。・・・町は整然と四角に区切られ運河が交叉して実際的な交通路となっている。町の中で駄馬を見たことがない。すべてが舟で運ばれてくる。」

イザベラは、新潟の運河をスケッチしている。(写真右)
私は新潟生まれなので、運河をよく知っている。たしか東堀とか西堀という運河があり、それらの運河を橋で渡って幼稚園に通ったことを覚えている。運河沿いにはヤナギが植えられていた。

いまでは運河はすっかりなくなって道路になっている。新潟市民の中でも50代以下の人は、運河時代を知らないのではないだろうか。

また、秋田に行くと
「久保田は秋田県の首都で人口3万6千、非常に魅力的な純日本風の町である」城下町ではあるが、例の “死んでいるような 生きているような” 様子はない。繁栄と豊かな生活を漂わせている。美しい独立住宅が並んでおり、樹木や庭園に囲まれよく手入れした生垣がある」

秋田は昔、久保田と言っていたらしい。初めて知った。また城下町を “死んでるような 生きてるような町” と表現しているところも面白い。保守的なけだるさと、殿様の町という矜持をあわせ持った、右肩下がりの城下町の雰囲気が伝わってくる。

イザベラは 「全体として私はいかなる日本の町よりも久保田が好きである。 たぶんこの町が純日本的な町であり、また昔は繁栄したが今はさびれているという様子がないためでもあろう。私はもうヨーロッパ人には会いたくない、私はすっかり日本人の生活に慣れてきた。」 とまで言い切っている。

イザベラ・バードは単なる旅行者に過ぎない。その一面的な印象でもって、すべてを断ずるわけにはいかない。ただ、私たちが行ったことのない外国、あるいは国内でも旅行した場合、それなりの印象を持って帰ってくる。それらは必ずしもすべてが独断と偏見ともいえない。
味噌汁を 「ぞっとするほどのいやなスープ」 と言ったり、蕎麦を 「みみずのような太さと色をした」 と表現していて、逆に新鮮さも感じる。

得てして歴史は、勝ち組、時の為政者の視点から語られ、必ずしも真相は反映されない。イザベラの「日本奥地旅行」は、外国人の視点を通した明治初期の日本を知る貴重な文献となっている。イギリス人だけでなく、現代に生きる日本人にとっても、とても参考になる旅行記だとつくづく思う。

イザベラ・バードの本州につづく、地元 北海道の旅を、時間をかけてさらに辿ってみたい。 (完)

望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。