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北の国からのエッセイ
札幌農学校の学生群像(1)
【北の国からのエッセイ】
2009年12月28日
未開の大原野・石狩に北海道の首府建設の槌音が立てられて、わずかに7年後の明治9年、札幌農学校が開校した。当時の札幌の住宅はまだわずかに千戸ほどで、人口は3千人弱、ここに開成学校(東京大学の前身)と並ぶ高等教育の場が誕生した。
授業はすべて英語である。外人教師によって、最先端の西洋科学の講義が行われた。また講義以外でも聖書購読・洋食導入など学生生活全体が西洋文化にあふれていた。学生にとって札幌農学校は、まさに世界との出会いの場であった。
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」といわれて間もない時代である。日本は近代化に大きく舵を切ったとはいえ、西南戦争が終わったばかりで、急激な変化に世の中はまだ混沌としていた。
こうした時期に、日本でもっとも未開の北海道で、最先端の教育の場があったことに改めて驚く。新しい学問に接した若者は、どのような学生生活を送ったのか興味深い。彼らのエッセーや日誌などを展示する企画展が、暮れも押し迫った師走、北大で開かれた。
写真上:発足当時の札幌農学校(明治9年・模型) 右:寄宿舎 真中:演武場(いまの時計台)左:講堂
時計台はその後の区画整理で、寄宿舎右角に移築され今日に至る。ほかの建物は現存せず。
外国人招聘
ところで、なぜ札幌に高等教育の場がいち早く設けられたのだろう。誰がどのような意図で作ろうとしたのだろうか。少し詳しくみてみよう。
江戸末期の蝦夷地(北海道と改名するのは明治2年)は、函館周辺とその沿岸部を除き大半が未開地で、当地の開拓はロシアの脅威に対抗するためにも緊急の課題だった。というのは、南下政策をとるロシアとの間では、樺太(いまのサハリン)の帰属をめぐって、江戸末期からしばしばトラブルがおきており、開拓して国民を定着させることが北海道の開発だけでなく、外交上の問題として重視されていた。
明治新政府は、明治2年、いち早く省庁に準ずる役所として「開拓使」を設けたのも、こうした背景があった。
余り知られてないが、資金のない明治新政府は、全国各藩に北海道各地を割り振って、開拓と警備に当たらせている。(北海道諸藩分領制度:右地図)
子ども手当ではないが、言ってみれば、国の予算の「地方負担明治版」みたいなものであろうか。各藩は財力がない上、明治新政府の威光もいまだ浸透せず、積極的に対応したのは一部の藩のみで、明治4年廃藩置県とともにこの制度は消滅した。
開拓使次官として、役所発足時から実質的なトップであった黒田清隆(初代長官はお殿様、2代目はお公家様、3代目が黒田、後に総理大臣)は北海道・樺太を視察したあと、技術も科学もない日本の国力では、とても北海道開発はできないとして、外国人の指導者招聘と海外への留学生派遣を太政官に建議する。
そして明治3年、自らアメリカに渡って、南北戦争が終ったばかりの北の勝ち組将軍 グラント大統領に直接会って、人材派遣を要請し、現職の農務長官であった
ホーレス・ケプロン
をお雇い外国人の顧問として迎える。
黒田清隆、そのとき30歳である。30歳の若造がアメリカ大統領に直接会って交渉する、まさに明治初期の「翔ぶが如き」時代ならではの背景抜きにして考えられない。
左の絵図は明治5年の開拓使の庁議(東京・芝・増上寺)の模様で、北海道地図を前に正面白髪がケプロン、指をさしているのが黒田である。旧北海道庁舎(重要文化財)内に掲げられている。(文化勲章受賞者・久保守制作)
ケプロンの年俸は1万円、今のお金で1億円だ。明治天皇についで偉く、当時役人として最高位にあった太政大臣三条実美の年俸9,600円(月給800円)を上回る。
しかも、国を代表する大使でもないのに、明治天皇に謁見するなど、異例の厚遇でケプロンは迎えられる。
ケプロンの来日は、日本の今の農林水産大臣が現職を投げ打って、ニューギニアの開拓に力を貸すようなものだったかもしれない。
北海道開拓の青写真を描いたケプロンは、開道100年の1969年(昭和44年)その功績を顕彰するために、札幌の中心地・大通公園に、黒田とともに等身大の銅像が立てられた。
(写真右:左手ケプロン、右手黒田清隆)
開拓使仮学校
ケプロン招聘のときに、駐米弁務公使(今の駐米大使)としてアメリカに滞在し、黒田に付き添ってグラントに会ったのが、黒田と同郷・薩摩の森有礼(初代文部大臣)である。
アメリカの発展ぶり、とくに生き生きとした女性の原点は何かと尋ねる黒田に対し、「それは教育だと思う」と森は答える。
帰国した黒田は、ケプロンの助言もあって、早速明治5年、学校を東京の芝・増上寺に作る。名付けて開拓使仮学校。
(写真左)
札幌に農学校ができるまでのつなぎの学校である。
当時の芝・増上寺付近は、今日と比べて見ると信じられないくらいのどかな農村?風である。
近隣にケプロンがgoverment farm と呼んだ官園が作られ、小麦、豆類からニンジン・タマネギ・ジャガイモ・アスパラガスなどの野菜類、リンゴ・サクランボ・ブドウ・ナシ・モモなどの果物類が植えられ、試験的に栽培されたこれらの多くの農作物が日本でも育つことが確認された後、北海道に持ち込まれる。
それまでのコメと粗末な惣菜(ダイコン、ケプロン談)主流の食卓が、今日とほとんどかわらない豊富な食卓に変わるルーツとなる。青森のリンゴ、山形のサクランボ、山梨のブドウなどは、北海道での育ち具合をうけて、それぞれの特産物となる。日本ではみたこともない農産物に、人前ではめったに姿を見せなかった皇后陛下がわざわざお忍びで視察されたという。
札幌女学校
明治9年札幌に校舎ができ、クラーク博士を迎えて本格的に札幌農学校の開校式を迎える。前後して日本で2番目の札幌女学校も開校する。札幌が日本の近代文化の発信地の一つとして発展していく礎となった。
札幌女学校は、その後女学生と学校職員のみだらな関係や、夜の会合に女学生に酌をさせていることなどが発覚した。怒った時の大判官・松本十郎(いまの知事に相当)は、「そんな学校は要らない」と廃校にしてしまった。
この時の女学生の中に、後の鹿鳴館の華となるなど何かと話題豊富な、森有礼 夫人となる広瀬常が在籍していた。もし、札幌女学校が今日まで札幌に残っていたら。農学校以上のインパクトがあったかもしれない。惜しいことをしたものだ。(写真右:札幌女学校の開校式の記念写真)
もっとも、札幌女学校より数ヶ月早く日本で初の女学校として開校した、東京女学校(お茶ノ水女子大学の前身)も、西南戦争で金がかかりすぎて女学校まで手が回らないとして、これまた一時廃校になってしまった。女学校の船出は大変だったようだ。公立のお茶の水や私学の津田塾が世に出るのは、もう一時代後のことになる。
黒田は「子どもの教育に当たるのは主に母親である。そのためには女性を教育しなければならぬ」として、官費で女子が海外留学できる道を初めて開いた。これに応じたのが津田梅子である。明治4年、梅子6歳の時である。梅子の父親が開拓使と関係があった。これもご縁だ。酒癖の悪い黒田は、酒の上で何かと評判の悪い風評を流すが、それ以外は相当な人物だったようだ。
クラーク博士
さて、教頭として迎えられたクラーク博士は、開成学校と東京外国語学校(東京大学予備門の前身)の学生から、自ら選抜した11人と黒田開拓使長官とともに、開校式に出席するため明治9年品川港をでて小樽から札幌に入る。
甲板で放尿したり、どてらの袖で洟をぬぐう若者を尻目に、呉越同舟した黒田がクラークに学生に「最高の道徳を教えてほしい」と要請する興味深いやりとりが、
内村鑑三
(農学校2期生)の
「内村鑑三信仰著作集」
に書かれている。
黒田(写真右)の要請にクラーク、即座に答えて曰く
「それはなんでもありません。私にはただ一つの道があります。私に託せられた学生にキリスト教を教えることです」
黒田「ヤソを教える、それはいかん。ヤソはわが国に長い間禁じられた宗教である。わが国にはわが国の宗教がある。ヤソは御免こうむりたい」
クラーク「私の道徳はヤソ教です。それで悪ければ私は道徳教育はしません」
平行線のまま終わったこのやり取りは、しばらくするとまた始まる。
黒田「先生、どうですか、考え直してもらえませんか」
クラーク「私の道徳はキリスト教であります」
2人とも意志の強い人だから、そのまま船は小樽に着いた。
翌日開校式という前夜に、黒田はクラークを呼んでまた話が始まった。
「先生、あなた変えないか」「変えません。私の道徳はキリスト教です」
どうしても変えないというので、黒田長官も仕方なく折れて
「ではよろしい、教えなさい。しかしごく内証で教えてください」
これを聞いて先生は非常に喜ばれた。
内村鑑三が通弁(通訳)から聞いたことと、後に渡米したときにクラーク博士から直接聞いた話をもとにして活字に残している。
敬虔なプロテスタントであったクラーク博士(写真左)は、妻宛の手紙に
「私は自分の意図を実行することに成功して、他のすべての官立の諸機関では禁止され、締め出されている聖書を教科書の一つとして導入しました・・・」
と誇らしげに書いている。
こうして9年前まで邪教といわれたキリスト教をもとに、生徒の自主性を重んじる実践的な人間教育が、旧社会から断絶した辺境の地で始まった。
役人が作ったがんじがらめの校則を破り捨て、「こんなことで人間が造れるか、
Be gentleman
これだけで十分だ」とする、クラーク教頭ら意欲あふれる外国人教師と、俊秀な学生との共同生活のプロローグである。
放尿洟垂れの行儀の悪い学生も、ひとたび授業となると、水分が身体に浸みこむように知識を吸収する。その学生のレベルの高さに、クラーク博士は自ら学長をしていたマサチューセッツ州立農科大学の学生に劣らないと驚く。
この結果、札幌農学校は単なる農業技術者だけでなく、新渡戸稲造(教育家・旧制一高校長) 内村鑑三(宗教家・非戦論) 志賀重昂(地理学者・国粋主義者) 広井勇(工学博士)など多彩な人物が育っていった。
彼らの学生時代の雰囲気を彷彿とさせるエッセーや日誌などを展示する企画展が、師走に北大で開かれた。
さっそく覗いてみた。(つづく)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。
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