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坂本龍馬 幻の蝦夷地移住(上)
【北の国からのエッセイ】 2010年01月07日

坂本龍馬

テレビが番組案内で、新聞が広告の見出しで・・・坂本龍馬の名前が踊っている。昨年来から本屋のノンフィクションコーナーを覗くと、坂本龍馬に関する本ばかりである。

「歴女」が昨年の流行語大賞にノミネートされた。歴史の好きな女性を支えている一人は、坂本龍馬なのかもしれない。

坂本龍馬の魅力は何なのだろう。正月のテレビでも女性タレントが、わいわいがやがや、いろいろ言っていた。日本統一をめざした男、それを見ることなく33歳で散った男、海を舞台に活躍した男、などが挙げられようが、何よりも変革の時代に力強く生きた行動力、男にひきつけられるのだろう。

龍馬は特に自ら自伝を書いているわけでもなく、もしかしたら後世が龍馬を実像以上に大きく見せているかもしれない。
かけ離れた事実が、歴史として伝えられていることが多いのも事実である。

龍馬か 竜馬か
坂本龍馬と坂本竜馬、どちらも見かける。難しい「龍」をやめて、簡単な「竜」にしただけだろうか。
「小澤さん」を「小沢さん」と書き、「廣さん」を「広さん」と書くようなものなのか。

「どちらが正しい本名でしょうか」
昨年 ある講演会で,日本ペンクラブ会員で新撰組友の会会員であるノンフィクション作家が聴衆に問いかけた。正解は「龍馬」である。

ただ司馬遼太郎の代表作は「竜馬がゆく」だ。司馬遼太郎は作品に自らの思い入れをいれるために、わざわざフィクションの「竜馬」に したそうである。

今日世間一般でイメージされている坂本龍馬像は、大ヒットした司馬遼太郎の作品によっ て作られたといわれる。つまり事実とかけ離れた部分もある、司馬遼太郎の思い入れの入った「坂本竜馬」が、流布 しているのである。

「もし『坂本竜馬』と書いているものがあったら、その専門家は『坂本龍馬』を知らない人だと思っていいですよ」
講演した幕末の歴史作家は、こう話して聴衆を笑わせた。

蝦夷地に目を向けた龍馬
坂本龍馬は土佐で生まれ、主に京都・長崎など西日本で活躍している。龍馬は北海道、当時の蝦夷とは無縁の歴史上の人物だったのだろうと、数年前まで思っていた。
ところが、どうもそうでもないようだ。 がぜん興味を持ち始めた。
龍馬は蝦夷地に移住しようとしていたのである。 えっ、あの坂本龍馬が!と思う人が多いことだろう。

まずこの資料をとくとごらんいただきたい。
昔の記録なので読みにくくて恐縮だが、勝海舟の1864年(元治元年)6月17日の日記である。龍馬が師と仰ぐ勝海舟に、蝦夷地移住計画を打ち明けていることがわかる。(内は筆者、カタカナをひらがなに変換)

坂本龍馬下東、右船(黒龍丸)にて来る。
聞く、京摂(京都・摂津)の過激輩二百人程、蝦夷地開発通商、国家の為奮発す。
此輩 ことごとく黒龍丸にて神戸より乗廻すべく、此議 御所(朝廷)並に水泉公(老中水野和泉守)もご承知なり。
且つ入費三、四千両、同志の者所々より取集めたり。速やかに此策 施すべしと云ふ。
士気甚だ盛んなり。


ところが同じ年の11月、新選組による池田屋事件が起きた。同郷で計画の中心的人物の北添佶摩(きたぞえきちま)ら、浪士多数が殺害され、龍馬の蝦夷移住計画は挫折する。

鳥取藩士で明治維新後、北海道長官・京都府知事を務めた北垣国道の日記には、明治32年1月24日の項に、勝海舟の訃報に触れた後、次のように記されていた。

我が同志者、坂本(龍馬)、北副(北添佶摩)河田(景福・鳥取藩士)の輩、東西数百、蝦夷の開拓を図る。
此は先生(勝海舟)の門下生中、同意者頗る多し。
多く京摂の間に潜伏し、不幸にして池田屋の変、其有力多数を斃されたり。故に北地策は全く瓦解せり。


龍馬は池田屋事件で蝦夷行きが頓挫しても、決してあきらめなかった。


これは1867年(慶応3年)3月、同志の長府藩士・印藤肇宛てにだした手紙である。 (※小弟=小生)
龍馬の熱くて固い決意がうかがわれる。
しかし、計画はいくら立てても難題が持ち上がり、その年の11月 京都近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺され、33歳の生涯を閉じた。志半ばとなったが、坂本龍馬が蝦夷地を目指していたことは明らかである。

龍馬と蝦夷の接点
それでは、薩摩と長州との仲立ちをとりもつほど忙しかったはずの坂本龍馬が、なぜ蝦夷地に関心を示したのだろうか。これがいまひとつはっきりしない。

当時の客観的事実として 1857年(安政5年)下田と箱館が開港して領事館が設置されると、先の明るい土佐藩主・ 山内容堂は、視察のため藩士を蝦夷地の箱館に派遣している。また同志の北添佶摩が蝦夷地を周遊して坂本に蝦夷地開拓を提案している。海援隊を作り、海を舞台に活動していた坂本にとって、北の産物を西に運んでくる北前船の基地・箱館は、無縁ではなかったことなどがあげられる。

京都摂津の浪人多数を連れて蝦夷地移住を企画した坂本龍馬は、私にとって箱館戦争、五稜郭の戦いの旧幕府軍総裁・榎本武揚とイメージがだぶる。(写真右)

勝海舟の説得を聞かず、龍馬の死後1年しか経たない明治元年、品川港から当時最強の徳川海軍を引き連れて榎本が蝦夷地に渡ったのは、決して蝦夷地に逃げたわけではない。

薩長新政府軍が、400万石とも700万石とも言われた徳川家の所領を一気に70万石に縮小したことによって、旗本・御家人とその郎党から大量にでる失業者の救済が目的だったのである。
現に箱館を占領した榎本は、「新政府軍と戦うつもりはない。蝦夷地への移住を認めてほしい」と、榎本に理解を示す在箱館外国領事を通じて嘆願書を出している。

ところが、岩倉具視によってこれが握りつぶされたことにより戦闘となり、敗北して戊辰戦争は終結を見る。

蝦夷地開拓の夢は、坂本龍馬は計画の段階で挫折し、榎本武揚は蝦夷地には渡ったものの、7ヶ月で頓挫したのである。 (つづく)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。