北の国からのエッセイ
札幌農学校の学生群像(4)
【北の国からのエッセイ】
2010年01月18日
初めてのアルバイト
新渡戸稲造
(2期生 岩手県出身)
学生の一大富源は所謂手業料にてぞありき。
農学教師ブルックス氏は米国風の思想をいだき、労働は相当の報酬を与へしと主張し・・・
学生毎週手業の課を受くれば農園の為には幾分かの労働をなすこと故、壱時間五銭つヽの割合を以て月末に勘定をする事に定めたり。
我等安政前後の出生なれば、士族風の気象も少しは保存せるを以て、金銭を払はるヽなどは、甚だ賎しき様に思ひたれば、胸中は欲しくてたまらねど、口には受領可否に関し討論せる・・・
然るに壱度壱円以上の金を掌に握り「これぞ吾が額にかきたる汗の賃銀なり」「これだけあれば五度や拾度蛇足(菓子屋の名前)に通ふも苦しからじ」と心に悟開きたる後は、誰壱人として手業料の貴賤を論ずる者なく、課業外にも手業を願ひでる輩さへ顕はれたり。
内村鑑三に「怠け者」と言われた 新渡戸稲造である。
(写真左:北大構内)
学生は衣食住だけでなく、若干の小遣いまで国費で支給されていたが足りなかったのだろう。「武士は食わねど高楊枝」と痩せ我慢をすることはできず、もらったバイト代のありがたさは、バイト学生であっただけによくわかる。
つい数年前まで5千円札の顔だった新渡戸は、第一高等学校の校長や東京女子大の学長を歴任する教育者だっただけでなく、国際連盟事務次長も努める国際人でもあった。
新渡戸は海外の学者から 「日本では宗教教育は行われていないのか」と尋ねられ、「ない」と答えると、驚いた学者に 「では日本では道徳教育をどうやって授けるのか」と言われて言葉に窮したという。
そこで書いたのが不朽の名著といわれる
「武士道」
である。新渡戸の言う「武士道」とは、今日言われている江戸時代までの武士階級の間に醸成された「武士道」とは違う。あくまで欧米の風俗に触れた上で、自己の道徳性の深層を形成している幼少時代の経験、新渡戸の場合厳しかった母親のしつけなどを再咀嚼して構成されている武士道である。
新渡戸の「武士道」は英語で書かれたため、日本よりも海外で大変なベストセラーとなって数ヶ国語に翻訳され、外国人にとって日本人の精神構造を知る上でのバイブルとなった。
高邁な抽象的な話は、それなりに大きな影響があったのかもしれないが、札幌に住んでいる私にとって新渡戸が一番偉いと思ったのは、私財を投じて、夜学校
「遠友学校」
作ったことである。
貧しくて学校にも行けない、札幌の向学心に燃える若者に
「友 遠方より来る」
と受け止め、明治から戦時中軍部に閉鎖されるまで、無料で勉強できる場所を提供した。昼は働き、夜にどれだけ多くの人が遠友学校の門を潜ったことだろうか。
右の写真、左から新渡戸稲造と宮部金吾、内村鑑三は
「農学校の三賢人」
といわれている。3人とも2期生である。心を許しあった3人は、写真のように北大近くにある明治天皇のお休み処「清華亭」でよく話しこんでいたという。
2期生に逸材が多く出たのは、1年で帰国した教頭クラーク博士よりはむしろ2代目教頭
ウイリアム・ホイラー
が偉かったからではないかと、一部で云われている。
ホイラー(写真左)はマサチューセッツ農科大学在学中、カリキュラムなどに不満で学生ストライキを起こした首謀者で、当時の学長クラーク博士と団交した当事者である。
きわめて優秀だったとはいえ、こういう男を札幌につれてきたクラーク博士も相当なもので、クラーク博士が帰国した後、ホイラーは若くして教頭になった。
ホイラーはこのような言葉を残している。
国家にとって国民以上の財産はない。
全ての自由国家では重要とすべきことは国民が第一であって、国は最後である。政府は最上の政府たらんと欲すれば、常に国民に奉仕することを旨としなければならない。
いまの政治家に聞かせてやりたい話だ。
ヒグマ出没注意!
南 鷹次郎
(2期生 長崎県出身)
札幌なども自分等が来た当初は戸数が千戸位、市街と云った所で大通から南六条の間、西は五~六丁目、東は二~三丁目までで、その内にも家のまばらな所があった。
農場の事務所から町へ出るにも、吹雪きの夜などは随分見当を失って、度方もない方に出たりすることがあった。学校の前に鹿が飛び出したこともある。
第二農場にあるバーンは・・・明治20年頃にはその裏あたりにまだ熊がでて放牧の豚を食ふたことが3~4年も続いた位だ。
今日のように市街が発達して来たのかと思ふと・・・自分は亀に乗せられた浦島をみたような気がする。
(文武会会報第55号)
南鷹次郎は2代目北大総長となる。野生動物と“共存”しながら勉強した当時を追憶している。寄宿舎で窓を開けてると、ヒグマの遠吠えが聞えたという文章を以前読んだことがある。南の追想はそれを裏付けるものだ。
クラーク博士が種をまいた札幌は、人口190万人まで膨れ上がり、今では東京・横浜・大阪・名古屋に次いで5番目の大都市になった。しかし、内村鑑三はこのようにいっている。
札幌は従順なる官吏、利欲にたけた実業家は生んだが、1人の人物をも1人の大学者をも出していない。
私はクラーク先生の精神は札幌に残っているとは思いません。残っているのは名のみです。
きつ~い一発である。残念ながら、今日の札幌を思うと炯眼といえるかもしれない。札幌観光もクラークさんの皮で食っていて、中身は空洞だ。
右の写真は、札幌農学校に入学して、ほぼ半世紀たった1928年夏、内村鑑三が伝道のため札幌入りしたのを契機に集まった同窓生である。
左から
宮部金吾
(2期生:北大植物園長)
南鷹次郎
(2期生:二代目北大総長)
佐藤昌介
(1期生:初代北大総長)
内村鑑三
(2期生:宗教家)
内田 瀞
(1期生:農場管理者)
一番右は同席した内村鑑三の息子祐之(精神医学者で北大教授、後に東大医学部長、プロ野球コミッショナー)
場所は明治天皇行幸の際、宿泊所として建てられた豊平館(現重要文化財)である。
久方振りに集まったこの日の会合について、内田 瀞の日記に
「旧事ヲ談シ、頗ル愉快ナリキ」
と一言書いてあった。50年前の学生時代が走馬灯のように駆け巡ったことだろう。
今回の企画で展示されている学生の多くは、キラ星の如く光っていた。しかし全ての学生が光っていたわけではない。ススキノに沈没して浮上しなかった学生もいたという。1期生として入学した24人のうち、4年後無事卒業できたのはわずかに13人、2期生20人のうち、半分の10人だけだった。
初期の農学校は、自主独立の精神の裏腹となる自己責任の原則を貫いたと言うことだろうか。 (完)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。
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