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北の国からのエッセイ
増上寺に開拓使跡を訪ねる
【北の国からのエッセイ】
2010年02月19日
寒さがもっとも厳しいときに開かれる、さっぽろ雪まつりが終わった2月中旬、久しぶりに上京した。羽田を降りると風はやわらかく、東京は暖かいなと実感する。いろいろご無沙汰していることもあり、2泊3日の上京は時間刻みのスケジュールである。東京生活が長かった割には、新設された地下鉄の接続と出入口を求めて右往左往、すっかりおのぼりさんだ。
こうした中、明治新政府が設けた開拓使跡を求めて、半日港区の芝増上寺を訪ねた。
開拓使仮庁舎
開拓使というと役職のようなイメージが浮かぶが、れっきとしたお役所の名前である。しかも、省と同格の中央官庁の一つである。
明治2年5月、榎本武揚率いる旧幕府軍を函館で破って全国制覇した明治新政府は直ちに2ヵ月後の7月に開拓使を設置した。というのも「北方領土、露人蚕食ノ念止マズ」というロシアの南下に対する懸念が、新政府の重要課題であった。当時、蝦夷地(明治2年に北海道と改名)には日本の主権はあったものの、樺太は日露混在地域でロシアに押されており、そのためにも北海道開発が急がれたのである。
当時、北海道の行政の中心であった函館は、地形的に北海道のはずれであるため、新政府は道央部の札幌に本府を設置することになったが、開拓使札幌本庁が完成する明治6年秋までは、芝増上寺の境内に開拓使仮庁舎を置いて、ここで開拓使の仕事をしていた。(写真右:増上寺内の開拓使東京出張所:明治5年)
ホーレス・ケプロン
ここに一枚の絵がある。
中央に威厳を保ちながら鎮座している白髪の老人は日本政府の外国人顧問のアメリカのホーレス・ケプロンである。
左側に立ってテーブルの北海道地図を指しているのが、開拓使長官・黒田清隆、右側に腕を組んで難しい顔をしているのが、徳川幕府海軍副総裁で勝海舟と袂を分かって、薩長クーデターに函館五稜郭で最後まで抵抗した開拓使中判官の榎本武揚である。周囲にいる人は、ケプロンが連れてきた夕張の石炭発見の地質学者スミス・ライマンと、後の札幌農学校初代校長となる調所広丈、それに通訳だ。(函館戦争で勝った明治新政府軍の大将・黒田と、負けた旧幕府軍の大将・榎本が処刑されず同席しているのが歴史の面白いところであるが、詳細はここでは省略)
この絵は明治6年春、北海道開拓の方針を増上寺内の庁舎で検討している開拓使首脳のもようを、洋画家・久保守が描いたもので、久保はこの絵を制作した後、次のように語っている。
「榎本はすでに知られている石炭・硫黄・鉱油などの資源を直ちに企業化すべしと主張するが、ケプロンは先ず北海道全域の総合的な調査をした上で、もっとも有望なものを企業化すべしと主張した。
五稜郭で矛を交えて以来、榎本の人物に深い信頼と友情を寄せる黒田は、再三榎本案を持ち出してケプロンの同意を得ようとするのだが、その都度激しく拒否された。
制作にあたってこの場に流れる厳粛な緊張感と、各人の性格や立場が織りなすドラマチックな関係を出したいと望んだ」
227×181cmの大きなこの絵は、国の重要文化財・旧北海道庁本庁舎(通称赤レンガ庁舎)の長官室前の廊下に掲げられている。
グラント松
増上寺はこれまで何度もお参りやイベントで訪れているが、歴史散策の目的をもって訪ねるのは初めてだ。
巨大な朱塗りの三門(写真右)をくぐるとすぐ右手に大きな樹が飛び込んできた。(写真下)幹周りは3m近く、高さはゆうに20mはあろうか、さすが歴史のあるお寺だなと思って近づくと「グラント松」という立て札が立っており、港区保護樹林に指定されていた。
立て札には「米国第18代大統領グラント将軍は明治12年国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣した記念としてこの樹を植えた」と簡単に書いてあった。この立て札をみて、ピーンと頭によぎるものがあった。
開拓使次官だった黒田清隆(当時長官不在で黒田が実質長官)は明治4年、鎖国を解いたばかりの日本に北海道開発の力はなく、欧米の技術と人材が必要であるとしてアメリカに渡った。南北戦争で勝利して大統領になったグラント将軍に直接会い、日本のため北海道のために人材を派遣してほしいと要請しているのである。このとき黒田清隆、若干30歳、若造の黒田にグラント将軍はわかったと応え、国務長官に対し黒田の要請に応えるよう指示を出す。
このとき「私が行きましょう」といってくれたのが、なんと農務長官であったホーレス・ケプロン、67歳である。蝦夷から変わったばかりの未開の北海道に、現職の農務長官がきてくれるというのは、日本の今の農水大臣がニューギニアに行くようなものだったかもしれない。
ケプロンは国を代表する駐日大使でもないのに、来日時も帰国時も天皇に謁見し、年俸も当時公務員で最高の高給取りだった太政大臣・三条実美の年俸9600円を上回る1万円(現在の約1億円)という厚遇で迎えられた。ケプロンは惜しまれながら農務長官を辞し、帰国した黒田を追うようにその年来日し、芝増上寺で開拓使顧問として黒田を指導するのである。
開道100年目の昭和44年、北海道開拓に貢献した人を顕彰しようということになり、4年間滞在して北海道開発の青写真を描いたケプロンと、10年以上北海道開拓を牽引した黒田清隆の2人が選ばれて、立像が都心の大通公園に並んで建てられている。(写真左手がケプロン、右手が黒田清隆)
グラント将軍の日本訪問は、ケプロン帰国後まもないことでもあり、もしかしたらグラント将軍はケプロンの話の聞いて増上寺を訪問し、記念の植樹をしたのかなと思った。
増上寺でお参りして一通り見て回った後、寺務所を訪ねた。
トントントン、ごめんください。
名刺も持ってない一介の男の突然の訪問にも拘らず、寺の人たちはとても丁寧に応じてくれた。
ところが、増上寺は戦時中の東京大空襲でわずかに三門と経蔵を残して焼き尽くされたため、明治時代の資料はなく、グラント将軍については文化財の担当者は立て札に書いてあることしかわからないということだった。
増上寺はもともと、明治新政府によって滅ぼされた徳川家の菩提寺である。また、新政府の神仏分離政策で、増上寺はびくびくしながら小さくなって生きていた時代である。こうした時代背景のときに国賓のグラント将軍がいかに名刹であるとはいえ、わざわざ訪問して記念植樹をすることはないだろう。やはりケプロンとの関わりなどで増上寺を訪問したのではないのかなと勝手に思った。
この推測を肯定も否定するものもない。史実があれば、どなたかぜひ教えてほしいものだ。
開拓使仮学校
それでは増上寺に開拓使を偲ばせるものは残ってないのかと尋ねると、記録では方丈(住職らが住んでいた建物)二十数棟を開拓使が借り上げた。その場所は隣の芝公園の御成門(おなりもん)の近くであったという。この話を聞いて開拓使が建物を借り上げたのではなく、国から話があったとき献上したか、国が事実上強引に収用したのではないかという疑問が浮かんだ。
徳川家をバックに権勢を誇ってきたお東さんこと東本願寺が、明治維新後廃仏毀釈のうねりの中で、組織を維持するため卑屈なまでに権力に擦り寄ったのと同じ構造だ。
増上寺にとって縁もゆかりもない開拓使が進出して境内で仕事をすることは、降って湧いたきたことで苦々しく、できれば開拓使の歴史は消したいのではないかと思った。それとも喜んで施設を提供して、明治新政府に忠誠心を見せようとしたのだろうか。
方丈があったという御成門まで歩いてみた。 御成門とは、仏事で将軍家が増上寺に参詣するとき時に通った門である。増上寺のある地下鉄大門から御成門駅までは、地下鉄路線が違うが、ほぼ一駅区間はある。このあたり一帯の広い広い敷地が、増上寺の境内だったのだ。今では芝公園として整備されている。
御成門駅の入り口がある芝公園の一角に、開拓使仮学校跡という記念碑が立っていた。(写真左)今日確認できる唯一つの開拓使の足跡である。北の建物跡にはふさわしくないソテツが傍に植えられていた。
ケプロンの進言もあって、黒田清隆はこの地に開拓使仮学校と開拓使女学校を建てたのだ。(写真下:明治5年当時の仮学校)開拓使仮学校と女学校は、翌年札幌に移転して開拓使札幌学校と開拓使札幌女学校となる。そして明治9年、クラーク博士を迎えて札幌農学校の開校につながるのである。
記念碑の裏に回ると建立者が刻まれており、北海道大学東京同窓会と社団法人東京エルム会と書いてあった。増上寺の名も港区の名もなかった。
港区芝の増上寺付近は東京のど真ん中である。ビルや住宅・商店がびっしり立て込んでいる。このあたりから麻布・青山にかけては官園が開かれ、ケプロンが持ち込んだリンゴ・ブドウ・サクランボから小麦・キュウリ・ナス・タマネギなどが試験的に植栽されたあと、北海道に持ち込まれた。
当時の日本人の体格が貧弱で男でも150cmに満たないのは、コメと粗末な惣菜(ダイコン)を主な食料としている食生活にあるとして、ケプロンは多様な野菜・果物を導入した。日本の食材の近代化のルーツはこのあたりなのだ。
港区の資料室を覗いてみた。担当者は私の求めに応じて当地に開拓使が存在した資料がないか、10cmもある分厚い港区史から地図まで、いろいろ探してくれた。
収穫は何もなかった。
140年前の開拓使の匂いはなく、ほぼ完全に風化していた。
増上寺の境内にはウメの花が咲いていた。(写真左)札幌のウメの開花は5月である。(完)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。
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