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異色プロ棋士 逝く
【北の国からのエッセイ】 2010年02月24日

NAKAYAMA NORIYUKI 6P DIES

20日未明、アメリカから送られてくる AMERICAN GO E-JOURAL を見ていると上の見出しが飛び込んできた。紙面の大半を使って追悼の特集記事まで組んでいる。

まさか!日本の一般紙にはまだ出ていない。日本棋院のホームページを開けると、中山典之6段(77) 2月16日脳梗塞のため逝去 の訃報が、18日付けで報じられていた。囲碁ライターとしても活躍し「昭和囲碁風雲録」など著書が多数ある。また北米やヨーロッパを始めとした海外への囲碁普及にも力を入れていた。と一言添えられていた。

昨年の中山先生
私に海外囲碁の旅の醍醐味を教えてくれたのが中山先生であった。中山先生とはツアーに合宿に、この10年余りの間に4度ほど同行させていただいた。去年はオーストリア・チロルのホテルで1週間、毎晩同じテーブルで夕食をともにした。これが最期となった。

これまでと違い、口数が少なく自ら進んで話すことが少なかった。チロルには3度ご一緒しているが、去年はこれまで欠かさなかった毎日のトレッキングも敬遠し、ホテルにこもっていた。

相当弱ったかなと思った。妹さんが付き添ってきた。
十数年変わらぬ作衣姿だった。これ以外の先生のイメージは浮かばない。
(写真右:チロルの山小屋で指導碁を打つ中山先生 2009.7)

文人 中山典久
長野の旧制上田中学校を出て、自転車で上京した中山青年は、日々の生活の糧を求めながら囲碁修行に励み、29才で入段した。プロ棋士になること自体が凡人にとって天才と思えるのだが、高年齢入段者には厳しい世界で、残念ながらプロとしてはタイトル戦には縁がなかった。指導碁は何度も打ってもらってはいるが、先生の公式手合いの棋譜を見たことがない。

しかし、あり余る才能は異分野で開花した。月刊「囲碁クラブ」の元編集長が、昔このようなことを書いている。

「囲碁クラブ」に随筆欄があり、政財界人や文士など有名人が登場していたが、これが全く面白くないと中山4段(当時)が酷評するのである。
文章が理解できるかどうかも知れぬ中年の棋士に、何度もコキおろされては編集長も不愉快だ。そこで、「これでも毎月集めるのが大変なのです。何ならお書きいただけますか」と突き放したところ、氏も不快な顔をしてプイと立ち去った。
数日後に何篇かの随筆を書いて持参に及ばれた。一読して仰天したのだが、私がこれまでに見た随筆の中では最高級の作品ばかりだった。面白さに関しては、碁好きの作家の文章よりも遥かに上である。

私は編集長の権限で、即刻中山4段の「実録囲碁講談」の連載を決定した。この瞬間より中山棋士は文士を兼ねることになった。

私は中山先生の文才の第一発見者である。


(写真左:ヨーロッパアルプス2300mのレストハウスで参加者一人5手づつ打つ記念イベント。中山先生の後ろ 筆者2000.6)

有名でないプロ棋士
職場や同好会でも囲碁好きが集まると、一番強い人は本因坊といわれる。作家の世界でも文壇本因坊というのがいる。

ある年、中山先生は時の文壇本因坊に誘われて、作家の囲碁大会を覗いた。初めて見る新顔の中山先生に対し、ある作家が「君はどれくらいで打つの」と尋ねてきた。中山先生は 「一応6段で打ってますが・・・」 と答えると 「それなら優勝するかもしれない。君も参加したまえ」 と勧められたという。

さすがに隣にいた文壇本因坊が
「何を言うか君、この方はプロの6段なんだぞ」と言ってたしなめたという。中山先生はいかに自分が売れてないプロ棋士であるかを、ニコニコしながらよく話したことを思い出す。

(写真右:ヨーロッパの大河、ライン川とドナウ川の源流、右に流れるとライン、左に流れるとドナウと書かれた掲示板前で、中山先生と筆者 2002.7)

国文学者?中山先生
中山先生はいろは歌を作る名人だった。いろは歌とは47文字すべての仮名を、一度も重なることなくならべて作る歌だ。
色は匂へど散りぬるを・・・(いろはにほへとちりぬるを・・・)が元祖である。古今わずかの人しか作っていないいろは歌を100種以上作ったとなれば、元祖弘法大師も仰天のことだろう。

中山先生のいろは歌の作品集2冊目の「圍爐端歌百吟」出版記念パーティが、平成12年正月、東京渋谷で催された。お祝いにのぞくと、異色な出席者が垣間見られる中で、冒頭の挨拶に指名された人をみてびっくりである。国文学者・宇野精一博士(東京大学名誉教授)だった。齢90に手の届く老博士が「やまと言葉を正しく理解できない学者が多い中で、国文学とは無縁の囲碁棋士が正しく使われている」と褒めちぎっていた。やまと言葉とは「ゐ」とか「ゑ」の世界である。

改めて書棚から「圍爐端歌百吟」(いろはうたひゃくぎん)を取り出して眺めてみた。

旅空は笑み 美しや 大いなる夢 我悟り 良き囲碁の譜を 胸に得ぬ 敢へて論ぜず 勝ち負けも

たびそらはえみ うつくしや おほいなるゆめ われさとり
よきゐごのふを むねにえぬ あえてろんぜず かちまけも


神 造りぬる 囲碁楽し 世に夢を得て 幸多き 争ふ人も 懸念せず 烏鷺笑む山は  平和なれ
かみ つくりぬる ゐごたのし よにゆめをえて さちおほき
あらそふひとも けねんせず うろゑむやまは へいわなれ


五十音が一度も重なっておらず、内容も伸び伸びとした見事な歌である。

囲碁の古典
中山先生は多くの本を世に出した。この中で「囲碁の世界」という本がある。四半世紀前に岩波新書から出版された。三国志の時代の武人から紫式部や清少納言の貴族、そして最近では、小澤 一郎と与謝野 馨(同列紹介するのはどうかという気もしますが・・・)に至るまで、4000年にわたって中国と日本を中心に貴族や武人をとりこにしてきた囲碁の魅力を縦横に論じている。

川端康成が書いた「名人」が、香り文学作品として残されているが、中山典之先生の「囲碁の世界」これは古典といえる名著だと思う。

絶版になったが、10年前だろうか、復刊された。
さすが岩波と感心したものである。恐らく多くの読者は一読したら、大切に保存していることだろう。中身の濃い本である。

(写真左:ヨーロッパ碁コングレスで外国人に指導碁を打つ中山先生 オーストリア、フィラハ 2007.8)

青い目の弟子3000人
中山先生は欧米を中心に毎年のように出向き、囲碁の海外普及に貢献された。ご本人曰く「青い目のお弟子さんは3000人を下りません」

とりわけ、15年以上前から毎年のように続けていた、手作りの「チロル囲碁セミナー」では、どれだけ多くの日本人と欧州人が囲碁の醍醐味を、醍碁味として味わったことだろう。

中山先生が70歳になったとき、一応この企画は公式には終止符が打たれた。長年にわたるチロル囲碁の旅に感謝の意をこめて、囲碁専門紙「週間碁:平成14年8月12日号」に寄稿したことが昨日のようである。

(写真右:お別れパーティで先生に感謝の贈り物をするドイツ人愛好者)

昨年久しぶりにチロルを訪れたとき、同じようにチロルを愛した囲碁愛好者の墓をお参りした。

奥さんが分骨して当地に墓を作ったものだ。墓には中山先生の作ったいろは歌が刻まれた銅版が貼ってあった。

先生が亡くなったいまでは、もしかしたらご本人のことを言われてるのかなと錯覚する。(写真左)

中山典之6段は囲碁棋士として本因坊にはなれなかった。
しかし、囲碁文士としては間違いなく本因坊だと思う。

合掌。
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。