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桑園博士町を訪ねる
【北の国からのエッセイ】 2010年07月08日

以前 札幌に、博士の村とか、大学村があったということは聞いたことがあった。偉い大学の先生が集まって住んでいたのだろうな、という程度の認識だった。札幌はすっかり現代的な街並みになっている。いまだにそういう町が存在するのだろうか。

歴史的な痕跡を探して札幌の街並みを楽しむツアーが、NPO法人によって企画された。札幌としては珍しく30度近くまで気温が上昇した週末、この企画に参加し、博士の町があったという界隈を歩いた。

実は参加してみて驚いたことに、わが家から自転車で15分と、非常に近いところに博士村があった。しかも、北大構内に行くときは、いつもその付近を通っている地域だ。

しかしこの地域が博士村だったと、思ったことは一度もないし、そんな看板もない。人口190万人の大都市の一角の住宅地を、なんの感慨も持たずペダルを踏んでいた。

あこがれの洋風生活
それでは、なぜ博士村と言われたのだろう。

大正7年、札幌農学校が北海道帝国大学となり、洋行帰りの教授たちが赴任して農場の一角に自邸の建設に取りかかった。教授たちは自ら欧米で体験してきた洋風生活を実践した。

大正から昭和にかけては、欧米の生活改革思想が、日本人のライフスタイルに大きな影響を与えた時代で、目新しいガスや電気器具など、生活を便利にする商品が脚光をあび、家事の合理化がすすめられようとした時代であった。このような近代的な欧米文化を取り入れた生活は「文化生活」といわれ、洋風のモダンな住宅は「文化住宅」といわれて、庶民の夢をさそった。

これらの「文化生活」「文化住宅」を実践した教授たちの住宅地を、市民は憧れをもって「大学村」とか「博士村」と呼んでいたという。

ある教授の自宅には、サンルームやロシア風のペチカがあり、またある教授の自宅には石炭ボイラーを使った温水暖房や、洋式の水洗トイレまであったという。さらに周辺には、流行の最先端をいく教授たちの好みに合わせたのか、当時ではまだ珍しかったビールやワイン、ベーコンなどを扱う店もあったそうだ。

このような豊かなコミュニティーと住環境を作って「文化生活」満喫していた人たちはどんな人たちだったのだろうか。

古地図を開いてみると、北大植物園初代園長の宮部金吾、納豆博士と言われた学士院会員の半沢洵、北大総長を務めた高岡熊雄、泥炭地の研究者でバラ博士の時任一彦などのそうそうたるメンバーばかりだ。農学部の教授を中心に20人ほどが、それぞれ400坪余りの敷地で、思い思いの洋風住宅に住んでいたという。後世の大学者が当地に住むことを望んだら「君はまだ早いよ」といわれたというエピソードも残されているという。

なお桑園とは、明治の初めに失職した庄内藩士が開拓して桑を植えたことから、一帯は「桑園」といわれ、北大農場に接していたことから後世「桑園博士町」と言われている。外壁にクワの葉が大きく描かれた病院があり、ユーモアを感じさせた。(写真右)

博士村 今いずこ
私たちは地図を片手に歩き始めた。

「ここが博士村と言われた地域です」と聞かされない限り、一目でわかるものはなかった。高層マンションや駐車場などが混在する静かな住宅街だった。

20数軒あったという「文化住宅」のうち、現在もそのまま残っているのは、わずかに2軒のみという。
「はい、この建物が現存している建物のひとつです」

二階建ての外壁にはツタが一面に壁を覆っていた。(写真左) わずかに窓の部分のみが眼玉のように開いていた。古色蒼然、いかにも歴史を感じさせるたたずまいだ。著名なT教授の自宅で、今も息子の大学教授が住んでいるという。他人の家を覗くような感じで、なんとなく気が引け、ふと泥棒の下見をしているのかなとおもった。


気のきいた主催者で、事前にTさんに話をして中庭まで入ることの了解を得ていた。草木がところ狭しと植えられており、手入れはほとんどされていないようだ。「自宅内部もお見せしてもいいのですが、なにぶん倉庫みたいになっていて整理されてなく、来年ならご覧いただけるでしょう」とのことだったという。

1階が洋風、2階が和風だという。(写真右) 窓までびっしり書類や本などが積み重なっているように外から窺えた。


もう1軒はH教授邸だ。入口の一角にクモの巣が張ってあり、一見空き家のようだ。(写真左) ただ、札幌の景観資産の指定を受けている標識があった。「大きな切妻屋敷、石造りの二本の煙突、下見板張りの外壁と応接間の出窓などに特徴があり、玄関前庭とともに良質な環境を形成している」と記されていた。解体したいのだが、なにぶん文化遺産の一面もあるし…外から見る限り、相当の傷みもあるように見受けられ、子孫の方はもしかしたら処理に困っているのかもしれないと思った。

この界隈の住宅の周りは、イチイで囲われていた。生け垣がイチイと言うのは珍しい。イチイはホテル正面の車回しの真ん中に植えられたり、皇族がお見えになったとき記念植樹によく植えられる樹である。成長の遅いイチイの生け垣が当時のまま残っているところに、昔の面影を垣間見ることができた。


宮部邸跡地
道路一つ隔てた四つ角に公園があった。庭石のような大きな石に「宮部記念緑地」というプレートが埋め込まれていた。北大植物園の初代園長宮部金吾博士の住宅跡地である。(写真左)

宮部博士は新渡戸稲造・内村鑑三とともに札幌農学校3賢人と言われた人で、札幌名誉市民第一号である。北大図書館に保存されている博士村の住人の集まりである「村会」の写真には、そうそうたるメンバーの中で宮部博士が前列のど真ん中に座っていた。もしかしたら宮部博士が「村長さん」だったかもしれない。

91歳まで生きた宮部博士が亡くなった後、屋敷は解体されたが、札幌市は歴史に残る宮部博士の痕跡を残そうと敷地を買い取り、公園にした。住宅は残っていないが、宮部博士が研究に没頭した「札幌農学校植物学教室」は、植物園内に移築されて現存している。(写真右) 宮部記念緑地には、自らが発見したミヤベイタヤなど、宮部博士ゆかりの木々が植えられていた。

変遷する桑園地区
振り返ってみると桑園地区の変貌はめまぐるしい。

もとはと言えば原生林の疎林だったこの地域が開拓されたのは、庄内藩士出身の松本十郎大判官(今の知事に相当)が、失職した自藩の庄内藩士を呼んで刀から鍬に持ち替えさせ、切り開いたのが始まりである。この地域を札幌農学校2代目校長、森源三が払い下げを受けて、さらに広範囲に開拓して桑畑にした。

森源三という人物は長岡藩士で、戊辰戦争の際、薩長軍と戦って敗れた長岡藩の筆頭家老・河合継之助の母と妻をかくまい、北海道に移住してきた。歴史のいたずらか、森源三は北越路を進軍して長岡藩を攻めた薩長軍の後続部隊の隊長、黒田清隆の知遇を得、農学校の2代目校長となった人物である。桑園の西側に住んでいた森源三の屋敷は、現在の知事公館であり、北大農場と接した桑園東側が博士村だったことになる。

知事公館の一角に、桑園開拓のいきさつを刻んだ碑「桑園碑」が建てられている。(写真左) 街並みを通じて札幌桑園の歴史を丹念にたどってみると、年月は50年100年過ぎようとも、その時に住んでいた人の息遣いが聞こえてくるようだ。(完)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。