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北の国からのエッセイ
歴史の道 本願寺街道を辿る
【北の国からのエッセイ】
2010年08月02日
囚人道路
北海道を旅すると、道内の主要道路はほとんどが囚人によって建設されたことにびっくりされると思う。
明治以降、北海道に入植した開拓者は、原生林を切り開き耕作地を作るのに精一杯で、道路などを作る余裕はなかった。そこで明治新政府は公共事業に囚人を使役し、道路建設を急いだ。
「こうした囚人道路によって北海道の開発がすすめられました」
バスガイドの抑揚のないアナウンスを聞きながら、広大な北海道を快適なバスツアーで回った観光客も多いことだろう。明治初期の月形監獄や、かの有名な網走監獄の囚人は、厳しい監視の中で重労働を強いられた。これらの監獄には凶悪犯だけでなく、新政府に不満を持ってあちこちで乱を起こした政治犯も数多く含まれていた。彼らは脱獄しないよう、時には足に鉄アレイを付けられて働かされた。
これらの歴史が、博物館や史跡としてあちこちに残されている。
道内の道路の大半が囚人道路という中で、唯一民間人によって作られた主要道路がある。この夏、歴史好きな同好の士と歩いてみた。
本願寺街道
札幌から定山渓温泉から中山峠を経て、洞爺湖から太平洋岸の伊達に通じる道路は、東本願寺によって作られた。明治3年のことである。
現在は、ほぼこの古道に沿って国道230号線が作られ、古道は断片的にしか存在しない。
実は、私は中山峠に植物観察に出かけた際、偶然、フキや雑草に埋もれた小さな石碑を見つけたことがあった。
2005年6月25日のことである。付着しているコケを削ってみると、「旧本願寺街道」と刻まれていた。(写真左)
私には、囚人道路が多い中でお東さんは大変立派なことをしたものだ、という程度の認識しかなかった。
そして、この辺りに道路を作ったのかと思いながら、その証をじっと見つめて思った。
善行ともいえるこの業績の証が、なぜ草葉の陰に隠れているのだろう。この事業を、胸を張って公言できない何かがあるのではないか。
私は草葉に覆われた石碑に、ある種の陰翳があるのを直感した。花の観察で訪れたのだが、記念にこの石碑もカメラに収めた。
その後、本願寺街道に強い関心を持ち、5年後の7月、ようやく一部に残っている本願寺街道を歩くことができる機会に恵まれた。(写真右)
なぜ東本願寺が明治のきわめて早い時期に、未開の地で本職でない道路づくりを始めたのだろう。
本願寺街道建設の背景
明治新政府は函館戦争で旧幕府軍を完全に掃討した明治2年、差し迫るロシアの南下政策の脅威に対応するため、いち早く「開拓使」という中央官庁を設置し、石狩原野のサツ・ポロ(乾いた広い大地)に首府づくりを始めた。
ところが札幌は海に面してなく、当時下田と共にいち早く開港して栄えていた北海道の玄関・函館とつなぐ経路としては、小樽経由では陸路海路とも遠回りだった。
そこで、北海道の名付け親である探検家・松浦武四郎は、噴火湾の伊達から中山峠付近を経て、直接札幌に抜ける道の建設が急務であると進言し、自らもアイヌの案内で道なき道を踏破していた。
しかし戊辰戦争で金を使った新政府にその余裕はなく、他人の財布に依存するため、ロシアの南下に備えて広い北海道を細分化し、全国諸藩に警護を命じるのが精いっぱいだった。 (この北海道諸藩分領政策は明治4年の廃藩置県で終了)
東本願寺の記録には
「新政府は急務であったサッポロへの新道切り開きを東本願寺に懇請してきた。
宗祖親鸞聖人は“世の中安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし”と申された。その精神を継承する東本願寺は新政府の懇請を承諾し、新道切開・農民移植(移民奨励)・教化普及の三要項を柱として北海道開発事業に着手した」
と記されている。
薩長連合軍のクーデターによって江戸幕府が崩壊した日本の社会は、新しい秩序を求めつつも混乱も生じた。
そのひとつが宗教の分野である。明治新政府はその権威のために、天皇を神権者とする国家神道を国教とする政策をとった。日本は仏教国から神道国家に切り替わった。これによって廃仏毀釈・寺領没収運動がおこり、仏教関係者にとって暗黒の時代となった。
奈良や京都を訪れると、手足がもがれ、鼻が削られている国宝級の仏像を見ることができる。これらが修復されるには、後の岡倉天心の出現まで待たなければならなかった。徳川幕府の権力をバックに権勢をふるっていた増上寺や東本願寺は、恐れおののいたに違いない。いつお取りつぶしになるかわからない。いつ民衆に襲われるかわからない。小さくなって時の推移を見定めつつ、自らの生きる道を模索したことだろう。
東本願寺の北海道の道路建設事業もこうした流れの中で行われた。歴史家は東本願寺に強要するのを避けるため、東本願寺が自ら申し出、これを明治新政府が許可するという体裁を整えたと分析している。
現如上人
明治3年2月、次の時代の東本願寺の長となる若干18歳の現如上人を団長に、総勢100人余の一行は、大勢の信者の涙の見送りの中、京都を出発した。
旅装束に身を固めたりりしい現如上人は 「父上、それでは参ります」 「たのみましたぞ」
父・厳如上人は、わが子現如に万感の思いを込めて手をあわせた。
われもまた 秋に淋しや 旅の袖 帰り来む日を 今よりぞ待つ
父・厳如にとって、たくましい青年僧に成長したとはいえ、面影につい幼さを見てしまう。辛い別れだった。
(現如上人・菊池寛著)
京都を立って北に向った一行に、行く先々の信者は生き仏を拝もうと手を合わせ、お布施をだした。 お布施は道路建設に必要な莫大の費用に充てられた。また、北海道をめざす目的の一つに農民移住の奨励もあった。
トトサンカカサン ユカシャンセ ウマイ肴モ胆斗 (たんと) アル オイシイ酒モ胆斗アル
エゾエゾエゾエゾ エジャナイカ
こうした歌を歌いながら一行は北海道に向った。
千辛萬苦の道路開削
道路の開削は伊達側から始まった。京都から同行した僧や信者が道路建設に乗り出したのかと思ったら、そうではなかった。僧侶や都男は役立たなかったのだろうか。
実際に道路建設を行ったのは、直前に当地に移住した伊達藩亘理領の移住者と、道東 和田村(現在の根室)の移住者、それに当地の地理に明るかった胆振のアイヌが中心だったという。
とくに現在の伊達に移住した伊達藩亘理領主の伊達邦成は、2万3000石からわずか58石。自分ひとり分の食い扶持程度までに削封されていた。これでは家臣はみな路頭に迷ってしまう。
戊辰戦争の際、薩長軍の意向に従わなかったため、新政府にいじめられた邦成公は、名家老の意見を取り入れ、藩をあげて未開の地、伊達に移住を決意した。
(写真左:伊達開拓記念碑 2008年3月 背後のクリの木は古里から持ってきた望郷樹)
移住まもない伊達家にとって、新道建設に従事した日銭はありがたかったという。また、道東 和田村の移住者には大工が多く、橋などの建設に貢献したという。
とはいえ、未開の山間部での新道切り開きである。今は絶滅したエゾオオカミとヒグマにおびえながらの道路建設であった。
山に寝るときは飢えた狼襲い来たりて夜通し眠ることできず。
それでも益々勇気を鼓舞し力を尽くしモッコを負って土を運び、斧を採りて木を伐り、堤を築き橋を架す。
日暮に到れば即ち木を集めて火を焚き暖をとり、樹陰に露を凌ぐのみ。
石を枕し、雪を褥として千辛萬苦、良く功をなせり。
(北海道通覧・久松義典著)
全長27里(103km) 道幅9尺(2.7m) の道路が、わずか1年3カ月で完成した。重機などなかった時代の驚くべきスピード、突貫工事である。
定山渓に近いところに、旧簾舞(みすまい)通行屋が現存している。本願寺街道を利用する旅人の宿泊休憩施設であった。札幌に現存する最古の木造建築だ。
(写真右:7月)
この3代目の案内で、簾舞地区にわずかながら残る当時の道路を歩いた。周囲はいまでこそ山を削った住宅地になっているが、当時は鬱蒼とした山中であったのだろう。
アップダウンのある山道をしばらく歩き、往時をしのんだ。
(写真下左)
本願寺街道が完成したとき、参議 副島種臣、 開拓使長官 東久世通禧らが検分に訪れた。
竹根針立馬足を刺し、皆爪間血色を露す
(竹の切り根 針のように立ちて馬足を刺し、皆爪の間血の色を露す)と記述している。
この本願寺街道完成のわずか数年後、道路はやはり平地がいいということで、札幌から千歳・苫小牧・室蘭を通る現在の国道36号線が完成した。(上記地図参照)
本願寺街道は札幌まで急ぐ偉い役人か、罪人しか通らない道となってしまった。
しかし、今では本願寺街道にほぼ沿って国道230号線ができ、札幌から洞爺湖に抜ける重要な生活観光道路となっている。2年前の北海道洞爺湖サミットの際、プレスセンターがおかれたのは、この中間地点にある留寿都(ルスツ)で、期間中厳しい警備が敷かれた道路でもある。
中山峠
本願寺街道を歩いたその足で、車で中山峠まで上った。
そして、5年前見つけた苔むした石碑を探した。
いくら探しても見当たらない。たまたま山菜取りに入った人にも尋ねたが、見つけることができなかった。
しかしこのあたりであろうと思われるところに、5年前にはなかった高さ1mほどある石碑の道標があり、
「旧本願寺街道」と刻まれていた。(写真右)
おそらく取り換えたのだろう。
新しい石碑を見ると、むしろ草葉の陰に隠れていた苔むした石碑の方が、本願寺街道の道標にふさわしいと思った。
中山峠は札幌から洞爺湖・ニセコ方面に抜ける分岐点で、観光客は必ず立ち寄り、おしっこタイムをとる。
そして天気が良ければ眼前に広がる「蝦夷富士」、こと羊蹄山に歓声をあげる。(写真左:2010年4月)
その峠からわずか50mも離れていないところに、現如上人の立派な立像が建てられている。
本願寺街道ができて100年目を記念して、昭和44年建立されたものだ。(写真下)
多くの観光客はほとんど見向きもせず通り過ぎている。その存在すら知らない札幌市民も多い。
北海道開発の初期の歴史を刻んだ現如上人は、静かに中山峠で、本願寺街道に沿って作られた230号線の車の往来を、手を合わせて見つめていた。 (完)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。
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