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秋の道東一巡り(1)~湿原の贈り物~
【北の国からのエッセイ】 2010年09月10日

今年は異常な暑さである。北国札幌でも30℃を上回る真夏日をこれまでになく多く観測した。常時30℃を超す地域にとって、夏は暑いのが当たり前という気温かもしれない。しかし、暑い寒いは相対的なもので、普段冷涼な地域で温度が例年より上がると、すごく暑く感じる。

ただ、連日報道されている本州の37度や38度が恒常的になってくると、話は違ってくる。寒いのは着込めば耐えられるが、暑いのはすっぽんぽんになっても耐えられない。酷暑に見舞われている地域の人たちに、心から残暑見舞いを申しあげます。

札幌は9月に入っても暑さが残っている。ここは25度を超すとニュースになる道東地方に行くに限る。植物観察仲間と共にバスを借り切って向った。

ヤチボウズ
バスは日高山脈を越えて十勝に入り、釧路方面に向かった。最近は高速道路がさらに東に延びて、遠かった地域が一日の行動範囲内に入るのは、とてもありがたいことだ。しかも高速道路料金が4時間乗ってもバスで900円、信じられない料金だ。社会実験などと言わず、恒常対策として定着してほしいものだ。

人家がほとんどない原野を突っ走ると、原野が平らでなく凸凹になっている景観に時々遭遇した。車はスピードがあるので原野が波打っているように見える。湿原によく見られるヤチボウズ (谷地坊主) である。 (写真下左)

バスは太平洋岸の目的地のひとつ、釧路と根室の間にある霧多布(きりたっぷ)湿原に着いた。文字通り霧の多いところで、沿岸には防霧林に指定された森がある。防風林とか防砂林というのは、全国各地でみられるが、防霧林があるのはこの周辺だけだ。この日は霧がかかって湿原の全貌は見えなかった。霧多布湿原は「霧多布泥炭形成植物群落」として、早くから(1922年)国の天然記念物に指定された湿原で、知名度は高い。

ここにヤチボウズの標本みたいなものがあった。もちろん自然にできたヤチボウズだ。木道に囲われるように膨らんだヤチボウズは、スゲに覆われていた。(写真右) 近くで見るとなんとなくゲゲゲの鬼太郎の髪の毛のようだ。

ヤチボウズはスゲ類などの根が大きな株を作り、泥炭地の表面に突き出てできたものだ。ヤチボウズは、一朝一夕にできるものではないという。冬になると土壌が凍結してスゲの株は持ちあげられる。春になると雪解け水などが湿原に流れ込み、凍結しているスゲの株の土壌をえぐる。こうした作用が数十年も繰り返されてスゲの株は次第に大きくなって盛り上がり、ヤチボウズになる。

ヤチボウズにはスゲが密集しているが、内部は空間もあり、アリや甲虫類・サンショウオなどの格好の住処になっている。ヤチボウズは湿原に住む動物にとっては、なくてはならない貴重な存在だという。

湿原のお化けのようなヤチボウズはなんとなくかわいらしい。そう思って見ていると木道に写真のような案内板が立てられていた。(写真左)




ヤチマナコ
霧多布湿原に近い釧路湿原に入った。国内でもっとも広い湿原である。

日本の湿原の8割は北海道にあり、その8割が道東地方にある。その中で釧路湿原は最大の湿原で、湿原全体が国立公園に指定されている。

広い湿原にはいくつかの入り口があるが、そのうちの温根内(おんねない)口から入り、整備された木道を歩いた。前方には湿原が果てしなく続いているが、ところどころで木も観察された。(写真右) ハンノキだ。水分を好むハンノキだが、湿原内では乾燥化が進むと、いち早く生育する木でもある。ハンノキの繁茂は釧路湿原の乾燥化のバロメータだ。

農地が欲しかった時代、釧路湿原を蛇行して流れる川を直線にして農地を作ったことがある。その結果、湿原全体の水が少なくなって、現在釧路湿原の乾燥化が大きな問題となっている。そこで再び数年前から、川を元の蛇行に戻す工事が行われている。莫大な国費で釧路湿原は、人間によっていじられている。

木道脇にちょっとした水たまりがあった。植物の腐植でできたのだろうか、水面に油が浮いているように見える。(写真左) この水たまりに竿が一本あった。長い竿を差すと結構深い。2mはあるだろうか。ヤチマナコ(谷地眼)だ。

ヤチマナコは湿原の落とし穴である。落ちると危険だ。馬が落ちて白骨になって発見されたこともあるという。

4年前に道北のサロベツ湿原に行ったとき、ヤチマナコを説明するとてもわかりやすい看板に出会った。(写真右) まさに湿原の中に黒い眼玉のように、ぽっかり口を開けた深い井戸のようでもある。

ドイツ語でもモール アウゲン「泥炭の眼」と言われる。植物が分解しきれないで堆積した泥炭地が多く、泥炭を暖房に使っているドイツらしい表現だ。

ヤチマナコは古い川や池・沼が、植物の成長によって埋められていく過程でできるという。温根内の木道わきのヤチマナコは水面があったが、多くの場合スゲなどで覆われて、水面が見えないという。湿原はもともと水に浸かったスポンジのようなものだ。木道を外れて歩くとズブズブ、落とし穴にはまって、思いがけない事故になりかねない。 (写真左:ヤチマナコの深さを測る専門家、2006年8月、サロベツ湿原)

ヤチボウズヤチマナコ、湿原に見られる全く異質な現象であるが、共通していることもあるという。それはいずれも、植物の旺盛な成長の過程に生ずる自然現象だという。湿原は野花の宝庫である。野花を求めて、自然が一杯の湿原を歩くのは至福のひとときだ。

湿原を徘徊する人を、ヤチウロタと命名しよう。そういう新語ができたら、私は名誉あるヤチウロタになりたい。そしてできればヤチウロコさんと一緒に、湿原を徘徊できたらどんなに楽しいことだろう。
(写真右:湿原に無数に咲いていた1cmにも満たないミゾソバ)(つづく)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。