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秋の道東一巡り(4)~知床旅情50年~
【北の国からのエッセイ】 2010年09月22日

根室から野付半島へと道東の海岸沿いを舐めるように走ったバスは、羅臼から知床峠を越えオホーツク海側に向った。左右の豊かな国有林の中を、車は知床峠に向って上っていく。毎年4月になると、峠までの開通を早めるために除雪作業が行われ、両側に7mもの雪の壁ができる「知床横断道路」だ。

森繫久彌が、この道路ができると観光客がどっと訪れ、知床の自然が損なわれるのでは、と心配したという。

羅臼岳
山のダケカンバはみな曲がりくねっている。豪雪と強風で真っ直ぐに育たない。その形からオドリカンバとかアバレカンバとも言われている。北海道では、同じ豪雪地帯のニセコと知床などにしか見られない特異な現象だ。

花の時期の6月は、ガス(濃霧)がかかって山肌全体をみることはできないが、天候に恵まれた今回はじっくり観察でき、その迫力に改めて厳しい自然であることを認識した。(写真左:羅臼岳とオドリカンバ)

知床の主峰、羅臼岳頂上が眼の前にひろがる。学生時代、苦労して登った山だ。標高(1660m)はそれほど高くないが、標高ゼロの海岸からの登山であり、相当きつい山だった。

頂上に立つと、エベレストのマナスル登山隊隊長の槙有恒がいたことを思い出す。羅臼岳の山開きの日で、その前年だったか日本登山隊がマナスルの初登頂に成功し、隊長の槙有恒は時の人になっていた。彼は山開きに招かれて羅臼岳を登っていた。その山がいま、目の前にある。

羅臼岳に向って曲がりくねって進む道路は、視界が開ける所に来るたびに、北方領土の国後島がくっきり見える。

エゾシカの天国
車中からはエゾシカが頻繁に観察された。(写真右) 最初は見つけるたびに歓声が上がったが、次から次に観察されるともう当たり前になる。知床にエゾシカが急激に増えていることは、新聞報道で承知していたが、改めて実感する。

しかも、丸々太っている。洞爺湖中島で増えすぎて食べ物がなく、やせていたエゾシカと比べるとみな肥満症だ。色艶も良い。北海道はエゾシカにとって天国のようだ。天敵はいないのだろうか。

北海道にはかつてエゾオオカミが生息していた。エゾシカを主たる食用としていたため、エゾシカは適当に間引きされ、共存していた。

ところが、明治の中ごろ北海道は未曾有の大雪に見舞われ、エゾシカは大量に餓死した。獲物を失ったエゾオオカミは人間が飼っていた牧場を襲い、牛馬が大きな被害を受けた。北海道は陸軍の必需品の軍馬の一大供給地であっただけに、明治政府はエゾオオカミの絶滅作戦に乗り出した。捕獲に懸賞金を出し、毒まんじゅうを使った結果、明治30年代に絶滅したものとみられる。北海道以外の棲息地であった樺太・千島にも棲息情報は全くなく、エゾオオカミは地球上から完全に姿を消した動物となった。

日本最古の博物館で、国の重要文化財になっている北海道大学農学部付属博物館に、世界で唯一エゾオオカミの剥製標本が、タイプ標本(新種であるかどうかを見極める拠り所の標本)として保存されているほか、ロンドンの博物館に頭骨があるだけだという。(写真左:博物館の剥製  6月)

ちなみに、去年人気の旭山動物園(旭川)で「オオカミの森」が開園した。その時どこから持ってきたのか電話で問い合わせたところ、カナダから移入したという。

アメリカでは農作物に被害を与えるシカやタヌキ、キツネの駆除対策に、オオカミ再移入計画が進められ、これに対し牧畜業者が猛反対しているという。農耕民族と牧畜民族の戦いとなっている。

北海道でもエゾシカによる農作物被害は見過ごすことができないほどになっており、北海道知事が自衛隊に捕獲要請をする事態になっている。

知床旅情
♪ 知床の岬に はまなすの咲く頃 思い出しておくれ 俺たちのことを ♪

羅臼から知床峠を越えるとき、仲間の一人でバスガイドOBのご婦人が突然「知床旅情」を歌いだした。

OBというと失礼にあたる。植物に関してほぼ専門家の域に達しているこのご婦人は、フリーとして時折呼ばれて、まだ現役としても活躍している貴重なガイドだ。彼女が知床旅情にまつわる話を披露した。

森繫久彌が知床旅情を作った時、当時まだうら若き加藤登紀子が、「ぜひ私にこの歌を歌わせてほしい」と名乗り出たという。
ところが森繫は「学生運動の闘士のような女に歌わせるわけにはいかない」と拒否したという。彼女はめげずに何度も何度も森繫の家に通い詰めた。
その真摯な姿に森繫の奥さんが、「あんなに熱心にお願いに来ているのだから、半端な女じゃない。歌わせてあげなさいよ」といい、ついに森繫も折れたという。

知床旅情が世に出て今年でちょうど50年にあたる。加藤登紀子はこの夏、記念の式典に羅臼に訪れ、知床旅情を歌った。もう何千回も歌ったことであろう。森繫久彌はすでに鬼籍に入っている。

テレビでは知床旅情にまつわる番組をいろいろ流していた。この歌を聴いて人生を変えた人、北海道に住み着いた人、森繁と一緒に酒を飲んだ漁師など、さまざまな人が登場していた。みな60~70代の人ばかりだった。

私は若きサラリーマン時代、札幌に勤務していたことがある。転勤で札幌を去るとき、恒例の送別会が開かれた。お開きのときは一本締めとか、万歳三唱とかいうものはなかった。代わって参加者全員が肩を組んで「知床旅情」を歌った。北海道に勤務した者が、北海道を去る時にいつも歌う歌であることを知らされた。胸が熱くなる歌であった。

♪ 飲んで騒いで 丘に登れば 遥か国後に 白夜はあけぬ ♪

乙女の涙
知床峠を越えてオホーツク海側の知床の入口・ウトロに着いた私たちは、滝を見に行こうということになった。知床の滝というと、斜里からウトロに入る国道沿いのオシンコシンの滝がもっともポピュラーだが、先導役は反対の森の方に入った。

知床には何度も来ているが、初めて通る方向だ。一応道がついてるので、知る人ぞ知るという滝なのだろう。「クマでも出そうだ」と言いながら、どんどん進んでいく。クマではなく、ここでもエゾシカがあちこちに姿を見せている。エゾシカの放牧場を私たちが歩いているようだ。

花がすでに終わったキオン(キク科)の大群落の跡を通った。半月前なら、見事な黄色の絨丹であっただろうと推測される。咲き残りのキオンがわずかにあった。(写真上円)

20分くらい歩いただろうか、海岸の断崖絶壁に落ちる滝にたどりついた。「フレペの滝」という。(写真右) 川はなく、知床連山に降った雪と雨が地下に浸透して湧き出ており、そのまま100mの断崖の割れ目から流れ出ているという。その様子が涙に似ていることから「乙女の涙」という名前もついているという。ここでもエゾシカがいて、滝をとると自然にエゾシカがファインダーに入ってくる。

遠くを見上げると知床連山が連なり、崖下の海を見ると知床半島の絶壁をみる遊覧船が見えた。

オホーツクの落日
ウトロ漁港の入口にオロンコ岩という大きな岩がある。ウトロでは知らない人はいない岩であり、ウトロに入った人もまず目にする岩でもある。高さが60m程ある丸い岩だ。その岩に上ろうということになった。

えっ もう夕方なのにあんな岩に上るの?

どうやらこのグループは、知床五湖などの有名な観光地には眼もくれない。岩の上にあがるとウトロ本来の植物を観察できるという。

後期高齢者は岩に上らないで下で待った。私もどうしようかと躊躇していると、私よりヒップの大きいご婦人が階段を上りはじめた。彼女が上るなら、私も上らなければ男がすたる。手すりに手をかけて上った。狭い階段なので、上から下りてくる人とすれ違う際に立ち止まるため、ゆっくり登れた。高所恐怖症の人はちょっと大変だ。230段あった。(写真右)

岩に上るとウトロ漁港が一望できる。(写真下)
オロンコ岩というのはアイヌ語で「そこに座っている岩」という意味だそうだ。


まさに港の入口に座っていた。この岩で先住民族が戦ったという逸話が残されているという。
岩の上の植物は、この時期トリカブトばかりだった。(写真左:手前の紫いろの花)

しばし眺望を楽しんでいると、日が暮れてきた。オホーツク海に夕日が落ちる。この夕日を見るために上ってきた人が多いのに気づいた。
知床旅情たっぷりの落日だった。


♪ 旅の情けか 酔うほどにさまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ君を 抱きしめんと 
岩影に寄れば ピリカが歌う ♪


この歌が歌われてもう50年も経つのかと改めて思った。(つづく)
望田 武司(もちだ・たけし)
1943年生まれ 新潟県出身
1968年NHK入局 社会部記者、各ニュース番組デスク・編責担当
2003年退職し札幌市在住、現在札幌市の観光ボランティアをしながら自然観察に親しむ。